ぼやきたくもなる世の中

〜秩序のない現代にドロップキック〜

大気の圧に勝てない程度の人間の話

前々から予定していたデートの当日よりも、一人で喧騒の中を歩くなんでもない日の方が、会いたいという欲求がむくむくと湧き上がる。

会いたい日に限って会えないのに、会える日に限って「あの時はなんだったんだ」と、はっとするくらい気分が乗らなくなったりもする。

 

人間なんて、私なんて所詮そんなもんだ。我儘で気まぐれな自分を理性でコントロールすることによって、みんな大人の仮面を被っているのだと思う。

 

ただ、気分が乗らないなりに、仮面を被って外に一歩出れば、それなりに楽しめるのが人間だ、と信じている。それがきっと私。だから気分を言い訳にするなという話だ。

 

 

 

「調子が悪い」と感じる時、さまざまな症状が私を襲う。怠さ、頭痛、眠気、食欲不振、吐気、眩暈、といくつもある中、私がかなり困る症状が、『新しいことをするエネルギーが足りなくなる』ことだ。

 

新しいこと、といっても全く大層なことではない。

地図を見ながら初めて通る道を歩く、今まで入ったことないカフェに入る、たったそんなことだ。そんなことのハードルが、とても高くなってしまう。Twitterにあがっているリンクを踏んでWebの記事を読む、新発売のおにぎりを選ぶ、新しいアプリをダウンロードして開く、好きなアーティストの新曲を聴く。それすらも出来ない。

 

 

クリエイティビティに溢れる活動をしている人はすごい。自分に波がありすぎるから、私ならきっとすぐに嫌になってしまうだろう。調子が悪い時期に入ると、調子が良い時の自分が全く信じられず、何もかもが怖くなってしまう、というのが容易に想像できる。

編曲は得意だが、作曲が出来ない。私が幼少から音楽を続けてきて出たこの結論が、全てを物語っていると思う。

作曲が出来ない自分が、本当に大きなコンプレックスだ。

 

 

将来、私は何になるんだろうと考える。

人より長い学生生活を過ごしていて、どんどん社会から遠のくように感じている。しかし、長い学生生活で溜めたアイディアを発散させるような、0から何かを作るクリエイティビティの溢れるような仕事はきっと合わない。どちらかといえば、毎日同じことの繰り返し、みたいな仕事、というより作業の方が自分に合うんだろうなと思った。それだって立派で必要な仕事なはずだが、自分が無能だということを具体的に知ったようで、何とも言えない気持ちになる。

きっとどこかでまだ、自分は特別だという思いがあるのだろう。本当にしょうもない。

 

比較的、何かに口を出すことは得意だ。ここを変えれば良くなる、これが足りない、これを削ってみよう。0を1にすることより、1を10にすることが得意だという自負がある一方で、1を10にする仕事をするには、その1を、0から創造する経験が必要ではないだろうかと思う。

というのも、0から1を作ることをしていたとある時、それを10にしてくれる人に対して「簡単に言いやがって…大変なんだぞ…」と何度思ったことか、これは思い出すのも嫌になるほどだった。指摘するのは簡単なのだ。と、思えてしまう。一人じゃ成し遂げられもしないくせに。一言くらい労ってほしいとか、良い部分は褒めてほしいとか、そういった「結果に直結しない」はずの気持ちを沸々とさせながら、もう辞めてやると思ったのである。

 

悲しきかな、きっと一度経験しないと、想像できないのが人間なのだ。さて私は、これからどんな風な道を辿るのだろうか。想像もできない。

 

 *

 

別れ際が大事だと思う。

何故ならそれは、その人と同じ空気を吸った一番最新の記憶になるからだ。

送るよ、と言われるとつい癖で大丈夫ですと断ってしまうが、駅まで、もしくは家まで、送ってもらうまでに交わす言葉はなぜか、今までの時間に交わした言葉よりゆっくり丁寧で、なんとなく覚えていることが多い。別れが惜しいからなのか、最後の最後まで人といる時間を堪能しようとしているからなのか、とにかく繊細に記憶が重ねられていったことを実感する。

逆に、用事もないだろうに急ぎ足で帰られてしまい、見送っているのにその視線に気づかれもしない時、姿の確認を諦めた次の瞬間から寂しさがブワッと湧き上がる。しかしこの手の寂しさを抱えた時、直前まで一緒にいたその人ではなくて、違う人の顔が必ず浮かぶのだ。そんなの、悲しくなるに決まってる。

丁寧に記憶が最後まで重ねられると、寂しくなった時に浮かぶのは大抵その人だ。これで簡単に私は攻略されるのである。

 

ただ、あっさりした別れも好きだ。

改札前で長々と喋ると、帰るタイミングがわからなくなる。その場所ですぐに、じゃあまた、と別れるのは自然で良い。見送ったりもせず、お互いがすぐに自分の帰る路を向く。再び戻った日常を歩く中で、あの時のあれが面白かったな、あの時あの人はああ言っていたな、と非日常の時間を振り返り、一人でニタニタ笑う時間が愛おしくて、でも我慢もできず、ついLINEを送る。「同じこと思い出してたよ笑」その言葉は真実か嘘かに限らず、寂しさを一瞬でも忘れるには十分すぎる言葉だ。

 

 

本当に失礼な話だと思うのだが、必死に口説かれた記憶はどんどん風化していく。

きっと居心地が悪い時のことを必死に忘れようとしているんだろう。悪いことを忘れるんだから、随分とお得な脳みそだ。

ただ第三者というのはその手の話をよくよく覚えているものである。「あの時のあの人、結局どうなったの?」誰のことなのかさっぱり思い出せない。よみうりランドのイルミネーションに無理やり連れて行かれてたじゃんと言われてようやく思い出した。あの人は、私のことではなく"彼女がいる自分"の未来しか見ていない人だった。言葉数は多く、随分と褒めて頂けた覚えがあるが、家に帰る頃には既に、その輪郭も滲んでしまっていた。

 

 

対して、異性に言われて本当に嬉しかった言葉や、されて心から嬉しかったことは、どんなに小さく些細なことでも、大抵は形がはっきり残る。

 

中央線上りの電車を待つホーム。

疲れ切った私は、隣に座るその人に「ちょっと待ってて」と急に椅子を立たれても、どこに行くのか何をするのか聞きもせず、視線も向けないまま「うん」と生返事をした。線路を歩く鳩を目で追うのに精一杯だった。

しばらくして戻ってきたその人が持っているのは、自販機で買ったあたたか〜いコーンスープだ。

「ただいま」といいながらコーンスープで手を温めているその人に、大して見送りもせず興味も示さなかったくせに私は、「あ、いいなぁ」とこぼしてしまった。あぁなんだか印象が悪いじゃないかと反省を促す私もいたが、反省するような気力も私にはない。視線はまだ鳩を追っている。夜遅いので電車はなかなか来る気配がなく、鳩ものんびりしているようだ。

その人は急に、勢いよくこちらを向いた。ゆっくり流れる時間の中で明らかに不自然な動きだった。びっくりして私もそちらを向く。

わ、真顔だ。

鳩の見過ぎか、その顔は鳩に見えなくもない。……今のは流石に嘘をついた。ちゃんと彼の顔だった。そういえばこの髪の毛、好きだな。

「渡したいものがあります。受け取ってくれますか?」

「えっ。は……はい。うん、頂戴します」

すると表情はくるくると180°変わって、にっこり笑顔になった彼は、コートのポケットからコーンスープを取り出した。一緒に飲も、と弾んだ声で言う彼はずるい。えー、いらない、とわざとらしくそっぽを向いたが、あまりにもだらしない表情を見られないためには仕方のないことだった。彼はそっぽを向く私の頭にコーンスープを乗せてきた。落とさないようにゆっくり振り返る私を見ながらあはははと笑い、「頑張ったよね、俺ら」と今まで見た中で一番優しい顔を向けてきた。思わず、「うん」と言った後に頬を触ってしまった。珍しく手冷たいからちゃんとあったまって、と言う彼の表情が、これでもかというほどに柔らかい。

彼に、コーンスープの缶の底にコーンの粒が残らない飲み方を教えてあげた。私が自信を持って提供できることはそれくらいだった。敵わなかった。

 

 

誰かの心に残ることを言ったり、ものを作ったりするには、結局心で向き合うしかないんだと思う。辛いことがあっても、調子が出ない時も、波にのれなくても、真摯にできることやるべきことを、心からすればいいのだ。これは誰かに垂らす説教ではなく、自分自身への自戒と捉えていただきたい。

やり過ごす人生はもうやめたい。

と思う一方で、大気の圧に押されっぱなしの私は、この夜をなんとかやり過ごす方法を、たった今模索している。