ぼやきたくもなる世の中

〜秩序のない現代にドロップキック〜

移動中に巡らせた思考の欠片

 

2ヶ月ぶりくらいに、私は渋谷駅に降り立った。

 

ただ乗り換えで通るだけだったが、駅は入り組んでいる構造のため、乗り換えだけでもかなり歩かされる。普段なんとも思わないその距離と、すれ違う人のあまりの多さに、随分と疲れてしまった。

 

しばらくの間入院していて世間から離れていた私は、幼い頃から慣れていた、人を避けながら歩くその歩き方が明らかに下手になっていた。ぶつかりそうになっていちいち立ち止まるのもパワーを使う。止まってからまた歩き出すにも、ギアを入れ直さないといけない。こんなに疲れることに、幼い頃から慣れていたというのも少し悲しい気がする。

スマホをいじりながら歩くのは、前方も同時に注意できる人だけにして欲しい。画面と指先に集中しているが故に、1m先に意識が及んでいないのがよく分かる歩みで向かい側から歩いてきて、すれ違うこちらが気を遣わないといけないのはなんだか腑に落ちない。同時に二つのことを出来ない人が、どうして自覚なくあんな大きな素ぶりで歩けるんだろうか。世の中そんなことばっかりだな。そんな風に心の中で文句を言っても、次の瞬間には忘れている。私は歩くのだけに、必死だった。

 

 

乗り換えた先の井の頭線では、急行だったが席は空いていて座ることができた。井の頭線で渋谷から吉祥寺に向かうまでの間に、読書をするのが昔から好きだ。(ちなみに吉祥寺から渋谷に帰るときは音楽を聴いてぼーっとしていることが多い。流れる景色が逆になるだけなのに、何故か自分の中で行きと帰りで何をするか、小さな決まりが出来ている。)

今日は、入院中に友達が暇つぶしにと持ってきてくれた小さい文庫本を新しく読み始めたが、内容が思ったよりも暗くて驚いた。癌になってしまってからすっかり諦めをつけるようになった女の人の話だった。とにかく暗くて且つ緩い空気感の文章で、入院中に読まなくてよかったかなと少し思う。しかし読み始めると引き込まれてしまうし、どこか主人公に共感出来る箇所を見つけると、少しムズムズした。友達は、どういうつもりでこの本を選んで持ってきてくれたんだろうか。

あっという間に吉祥寺に着き、今度はあまり歩かされることのない便利な乗り換えをし、総武線に乗った。

 

 

総武線のホームは、私を何故だか感傷的な気分にさせる。半年ほど前、夕方の高円寺のホームで一緒に電車を待っていた同い年の女の子が、日を背負って走ってくる電車をぼぉっと見ながら「恋、したいなぁ」と呟いていた時の記憶が鮮烈だからだろうか。あの時はついつい『エモい』という表現を連呼してしまった。

確か、その日は一日中楽器の練習をして、終わった後ルノワールに入り、フカフカのソファに深く腰をかけ、恋愛に疲弊したという話を散々聞かされた後だった。彼女は同い年で学年は一つ上の、形式上は先輩という存在だったが、実際恋愛には全然懲りてなさそうだったので少し羨ましくもあった。

彼女は、今年のクリスマスは良いプレゼントをくれそうな人を吟味して選び、その人と一緒に過ごすと、この前LINEで嬉しそうに言っていた。欲しいマフラーがあるんだそうだ。私だって本当は、クリスマスになると限定で出るジュエリーに憧れているが、どうしても自分で買う気にはなれないし、吟味……なんてことも烏滸がましくて出来るわけがない。先日、気を許している女友達に、クリスマスはどうしているか連絡を入れたばかりだ。ケーキ屋でバイトをしている彼女は、余れば持って帰れるから一緒に食べようと言ってくれた。

 

 

なんてことを、総武線吉祥寺駅ホームで電車を待つカップルを後ろから眺めながら思い出した。カップルはお互いがお互いのスマホに夢中で、言葉は一言も交わしていなかった。人と一緒にいる時、スマホをずっといじるのがあまり好きではない私は羨ましくもなんともなかったが、思えば私は毎日一緒にいるような恋愛はしたことがないので、二人の状況によっても違うんだろうなと思い直した。一緒にいてもスマホをいじるくらいが、ちょうど良いのかもしれない。あれ、なんだか少しだけ羨ましくなってきた。

 

 

そういえば渋谷駅の乗り換えの時、大袈裟に繋いだ手を振って歩くカップルが目に留まった。よく聞く「カップルがイチャイチャしているのを見るとむしゃくしゃする」といった類の話ではなくて、私は昔から手を繋ぐのが嫌いだなとふと思った。それで何度も彼氏を悩ませたことがある。

共感されたことはないが、私は腕を使ってバランスを取る癖があり、平地を歩いていてもまるで平均台の上を渡っているような歩き方になることがあるため、片方の手が塞がれてしまうのは不安になるのだ。荷物を持っている時、手を繋いでいない方の腕がまとめて負担しなければならなくなるのも嫌だと思ってしまう。代謝が良い方で、すぐに手汗が気になってしまうという面もある。とにかく、手を繋いで良いかと聞かれると快諾出来ないし、黙って手を繋がれるともくもくと不快な気分が湧くのだ。

 

でも、こんな私でも「手を繋ぎたい」と思ったタイミングは人生で何回もある。手を繋いで幸せだった記憶もある。どうやら過去に良い思いをしたことがないから、なんて理由では少なくともないらしい。

思えば、今までに「手を繋ぎたい」と思った相手は何人かに限られる気がする。もしかしたら、そうやって本能的に「好きな人」「そうでない人」を嗅ぎ分けられるかもしれないと逆説的な結論に至った。頭で考えすぎてるとよく友達に怒られる私は、それくらいの身体の反応に判断を任せた方が、幸せになれるのかもしれない。

 

 

 

目的地に着いた。これから、一日が始まる。