ぼやきたくもなる世の中

〜秩序のない現代にドロップキック〜

写真を撮り撮られることに鈍感な世間と敏感な私と敏感であるべき世間

 

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近頃、写真の『力』を感じることが多くなってきた。

写真SNSであるInstagramのビジネス利用が当たり前になり、写真一枚の流出で芸人生命が絶たれ、ブログに載せた写真がアイドルと付き合っていることの"匂わせ"だとして総バッシングを受ける。Facebookに載せようとした写真に友達が自動でタグ付けされ、洗面所で写真を撮ると家やホテルがすぐさま特定される。

それでも尚、写真に鈍感な人が多いことに、私は一番恐怖を感じている。

 

街の風景を撮ろうと思った時に、躊躇なく向かいから歩いてくる人の顔を写す神経がわからない。顔がはっきり判別できる距離にいる人を正面から写した時、それが例え個人利用の範囲に収まる写真だとしても、私は絶対にデータを残しておけない。簡単なことで、私だったらそのように映り込みたくないからだ。

そもそも、カメラのレンズをそちらに向けることすら躊躇われる。簡単なことで、私だったら「私もしかしてあの人の撮る写真に写ってる?」という心配をしたくないからだ。

 

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周りの人への配慮は、カメラを持つ人の最小限のマナーだと思う。それは「田んぼに三脚を据えない」「禁止されているところでは撮らない」だけではなく、被写体の対象となり得る全てのものに、一通り意識を向けなければダメだ。どうして、マンションの一室のベランダに干してあるTシャツを撮るのか。どうして、海外に行って電車内の外国人の顔をアップにして撮るのか。

貴方にとっては、そこに何らかの芸術性を感じるただの被写体かもしれない。しかし、その被写体自身の生活やプライバシーを考えられないようであれば、二度とシャッターを切らないでほしい。

 

これはもしかしたら男女の差や経験の差があるのかもしれないが、知らない人のカメラのレンズがこちらに向いていると、とても恐怖感を抱いてしまう。私が階段を降りようとした時、階段の下でカメラを構えている人がいたら、何を撮っているかは別にしても、間違いなく降りることは出来ない。電車の向かい側の席に座る人がスマホを地面に対し垂直に、まっすぐ正面に据えていたら、何かを撮ろうとしているのかもと警戒してしまう。

 

そう、上で少し触れたが、今の世の中誰しもがカメラとなるものを持っている。スマホのカメラは本当に高性能になり、ある場面では一眼レフに劣らないと思えるほどだ。つまり、自分が加害者になり得ることを、「カメラマン」でなくても、全員がわかっていなければならないはずなのだ。

 

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最低限のマナーを守ろう。

映り込む人が少しでも不快になりそうなこと・損益を被る可能性があることはしない。それはシャッターを切っても切らなくても、構えた時点で意識しなければならない。

またこれは、SNS等に載せる場合には一層気をつけなければならない。一度ネットの海に出たものは完璧に消せないことは、どこかで必ず聞いたことがあるだろう。

 

簡単なことで、相手の立場になって考えてみることだ。貴方の顔がはっきり写った写真が、全く知らない人のアカウントから意図せずネットの海に流れ、その情報をどこかに抜き取られたら?

「そんなこと、考えてなかった」と呑気でいる間に、自分の情報が知らないところから知らないところへ渡っていたら?

 

 

写真は素晴らしいものだ。

その時その瞬間を抜き取り、ある時は思い出より鮮明に、そして美しく残すことが出来る。或いはその一枚で、人の心を動かす可能性すら秘めている。

だから、だ。

だから、それがただ素晴らしいものであるように、最低限のことを守らなければならない、と私は思う。

 

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