ぼやきたくもなる世の中

〜秩序のない現代にドロップキック〜

遠いと思っていたのは、わたしだけだった

 

「ねぇ、ちょっとベランダに出てみてよ」

 

まさかと思った。

「え、なんで?」

「いいからいいから」

という会話をして、恐る恐るカーテンを開ける。反射する部屋の光の奥に見える空は今日も雲に覆われていてどんよりと暗く、微かに滲む月明かりは天に囚われた誰かの魂のようだった。外の世界には流れというものがないんだと錯覚してしまうほどに、厚い雲は微塵だにしない。いや、実際微動だにしないなんてことはなくて、わずかな動きを感知する能力がわたしにはないのだ。例えば象には、この雲の動きはどう見えるのだろうかーー。さて、窓に向かって立ち尽くしていても仕方がないので、窓の鍵に手をかける。

窓を開けるのに少し躊躇った。もしかして、もしかすることがあるのだろうか。

「まだ?」

彼が催促する。

「ううん、もう出れるよ」

重い窓を20cm、30cmほどゆっくりと開けて、首を出して左右を確認した。

柔らかい風が頰を撫でる。それだけだった。

 

部屋に虫が入ってしまっては寝るときに困るので、ベランダに出た私はすぐに窓を閉めた。PM2.5という単語を聞くようになってから、手すりはいつも少し汚い気がしている。ポッケに詰めてきたキャラクターのハンカチを出し、そのキャラクターの顔が汚れないように上にした状態で、手すりを拭いた。キャラクターのハンカチなんていつからか持ち歩かなくなったが、いくら汚れてもいいやと家で使い始めてからの方が、十分に活躍している。もう随分と汚れてきてしまったが、まだまだ使うつもりだ。汚れる覚悟をしてからの方が活躍できる、これはきっと人間にも言えることである。

綺麗にした手すりに体重をかけ、息をひとつ吐き、有線イヤホンを片方外して、目を瞑って、頭の中を空っぽにした。感じるのは、右耳から聞こえるザラザラとした向こうの空気の流れと、左頬に当たる生温い風だけだ。そうやって空っぽになった時に真っ先に浮かんでくる言葉を、彼には伝えたいといつも思っている。

 

「ベランダに出る時、ちょっと期待しちゃった。いるのかなって。そんな漫画みたいなこと、あるわけないのにね」

ふふ、と電話の向こうで笑っているのがわかる。

「俺がいたら、嬉しかった?」

「うん。すごく」

「会いたいね」

「うん。すごく」

 

がっかりさせるためではない、ということは分かっていた。だが、それ以外は分からなかった。例えば彼の向かいのマンションには誰かが住んでいて、その誰かに向かって放った『ベランダに出てみてよ』なのかと、少し不安に思った。外に出るとはそういうことだ。遠く離れた場所にいる私よりも近くに感じる存在が、きっと沢山ある。

 

「あのさ、ありがとう」

彼は何の脈絡もなく、そう言った。彼もわたしと同じように言葉を選んでいるのだとしたら、これほど嬉しいことはない。だけどそう信じるには、まだ自信が足りなかった。

彼は続けて何かを言うかと思ったが、それっきり黙りこくっている。

「うん、どうして?」

ごめん突然、と言いながら、彼は一つひとつの単語を確かめるようにして、ゆっくりと喋り出した。

 

「君がいてくれることが、有難いと思ってる。本当に」

何があったのか、どうして今そんなことを唐突に言い出したのか、全く想像もつかない。だけど、胸の奥がきゅっと締め付けられ、僅かに苦しさと不安を覚えた。

「こんなに遠くにいるのに?」

ついこの間、自分の家と彼の家の距離を調べたら、直線距離で250kmほどあった。高校生の私にはとても具体的に想像できる距離ではなく、ただただどうしようもなく遠いんだなと、まるで異国の友を思うような心境になってしまう。

「遠いけど、言うほど遠くないと思うんだよ。だって電話は時差がなく通じるし、会いに行こうと思えば一晩で会いに行けるよ」

「一晩?夜に電車はないよ」

「何言ってるの、僕は車を運転できるんだよ」

「そっか、でも寝ててほしいなぁ夜は」

彼はふっと息を吐き出した。

「そうだね、でも寝れない夜は会いに行かせてよ」

一般的に、ロマンティックなピアノの旋律がバックに流れ、頬を赤らめてしまうような甘い言葉を耳にして、思ったより心は浮かなかった。どうせ来ないくせに、という言葉を辛うじて飲み込むだけだった。

 

彼はよくわからない人だ。だからこそ惹かれるといえばそれまでなんだけど、そう単純なものでもない。

彼は、私と似ている。外に出れば周りの空気や相手の機嫌を気にして器用に振る舞い、内に帰って来れば疲弊して一歩も動けなくなる。考えすぎと笑われるほどにいつも頭はぐるぐると働いていて、その動きを止められるのはセックスの最中と苦労して眠りについた後くらいだ。どこか冷めているところがあって、世の中にも上手くいかない人生にも、何となく諦めがついている。涙腺が弱く、思い出の曲を聴くと最初の2音で泣けてしまう。笑い上戸で、一度ツボに入ると誰にも止められない。身体が弱くて、常に絶望を背負って、生きている。

彼と私の違うところもたくさんある。彼が大好きなトマト、私は苦手だ。彼は歌が上手だが、私は恥が勝って上手く歌えない。彼はお風呂が苦手だが、私はしょっちゅう長風呂をする。彼は飛び切り頭がいいが、私は中の上くらいだ。彼は雷が好きでよく見惚れているが、私は怖くて布団にくるまってしまう。彼が抱える絶望は、私には殆ど見えていないのに、私が抱える絶望を、彼は簡単に理解してしまう。

 

「この前さ、君に言われたことがやっと分かったんだよ」

「わたし、なんて言ったっけ」

「インプットとアウトプットのバランスが大事ってやつ」

「ああ!」

急に恥ずかしくなった。気分が落ち込むとき、何が有効なのかという話をしていたときだ。好きな音楽や映画を観聴きしたり、お笑いの動画を見たりするようなインプットに重きを置きがちだが、自分で歌ったり笑ったり誰かと話したり何かを作ったりするようなアウトプットもした方がいいと、確かに少し前に話した記憶があった。あの話をしたとき彼は確かに落ち込んでいて、そんな中押し付けがましく喋ってしまったなと反省したところまでよく覚えている。

「僕に足りてないものはアウトプットだと気付いた。だから君に電話しようと思ったんだ」

「話すことは一番簡単なアウトプットだもんね」

「……そうかな、僕には難しいよ」

ちょっとだけハッとさせられた。わたしにとって、彼と話すときは普段頑丈なストッパーが外れ、力が抜け、するすると言葉が出てくるようになる。取り繕ったそれではなく、脳みそや心や体の隅々から流れるように出てくる、純粋で紛れのないわたしのそれだ。だから、簡単だと言った。彼の存在がそうさせるのだ。だけど、きっと彼にとってのわたしの存在は、違うんだと思った。

「そっか。じゃあ、わたしでよかったのかな」

 

「え。君以外はないよ、それは絶対」

核心をつかない、どこかふわふわとした彼の言葉と重なるように、聞き慣れたメロディーがイヤフォンの先から聞こえた。これは絶妙に話を逸らせるチャンスだ。

「あれ?今コンビニにいるの?」

「あぁそうそう、気分転換にドライブしてたんだよね。今はコンビニに車停めてタバコを吸ってるところだった。そろそろ運転再開するかぁ」

「切る?」

「ううん、もうちょっと話そ。ドライブ終わるまで付き合って」

 

最近の車は、Bluetoothスマホを繋げ、運転しながらもハンズフリーで電話ができるらしいから便利だ。そこからは、本当にたわいのない話を交わした。芸能人の誰が逮捕されたが作品に罪はないとか、あのアーティストが最近活動してないとか、そんなことばかりだ。途中、共通の好きな音楽をかけながら一緒に歌ったり、おすすめの曲をかけて聞かせたりもした。

あぁ、この時間が永遠に続けばいいなと思ってしまった。あまりない感覚だ。大衆が永遠を望む場面は多いが、もし永遠というものが本当にあるとしたら、それはとても残酷な世界だと思う。だって今の時間が永遠に続くということはすなわち、私たちはずっと遠いままだ。

 

彼の言葉数がだんだんと減ってきた。私も捲し立てるように喋る気は起きず、沈黙の時間が増える。まぁこれも良い。決して居心地の悪い時間ではない。

「あのさぁ」

「うん」

「さっき話したじゃん、アウトプットするために君に電話したって」

「うん」

「やっぱり電話やめるわ」

「……え?」

「ありがとう、ドライブ中にも付き合ってくれて」

「待って、切っちゃうの?」

酷く混乱した。珍しくやや唐突な申し出だった。やっぱり、アウトプットのためには私じゃダメだったのか。やっぱり普段のように、心のスイッチをオンにして喋らないといけなかったのだろうか。楽しいと思っていたのはわたしだけ?オフモードのわたしはつまらない?彼は、さらに遠くにいってしまうのだろうか。

 

「うん、切るよ」

 

夜の際立った静寂が身体に染み渡った頃、見下ろしてた道路に、一台の車が停まろうとしている。そのハザードはやけに眩しく、わたしの心は飛び跳ねた。