ぼやきたくもなる世の中

〜秩序のない現代にドロップキック〜

人との関わりについて

とある方から質問をもらった。

 

 

「貴方の他者への興味の源泉を知りたいです。」

 

源泉を辿ることは、私という人間を解剖するようなものだ。

あんなことやこんなこと、はたまたアレやコレについても話さなきゃいけなくなるんじゃないか?大丈夫か?私本当に解剖しても平気な部類の人間か?ダメじゃない?エッエッ、どうする?逃げる?

 

・・・平常を取り戻してみると、なるほどいい機会なので、気を取り直して真剣に考えてみようと思う。

 

 

その方が言うには、こうだ。

「自分は貴方とは違って研究している学問や生み出した創造物、自分の知らない場所といった『人から発生したもの』についての興味は人一倍あるのですが、人間関係を『サービスの交換』つまり『あれをしてくれた見返りにこれをする』という形で捉えていて、自分の与えた分以上を求めて拒絶されても文句は言わず、逆に支払いに釣り合っていないと感じたら何も言わず距離を取り、そのおかげで今まで人間関係に頭を悩ませたり、相性の合わない人から距離を取れずに困ることはなかったのですが、このままだと人間そのものへの好奇心や愛着が持てないまま一人きりで生きていくことになりそうです」

一文が長くてびっくりした(そこじゃない)。

ちなみに早速話は脱線するが、一文が長いということは悪いことではないと思っている。読んでいて、話かけてもらっているような感覚になるからだ。相手に伝わりやすい文章になるよう簡潔な文章をつなぐことが基本かもしれないが、まず伝えたいという意志がないと話は始まらない。伝えたいという欲望が走ると、頭で考えるよりも先に言葉が出てくるという経験は、皆がどこかでしているのではないだろうか。

 

 

さて、質問に戻ろう。勝手ながら要約すると多分こうだ。

「人が作り出すものには興味が沸くけど、人自体に対する興味が全然ない。あなたはどうして人自体に興味を持つのか?」

敢えて残酷に、そして話に普遍性を持たせるとこんな感じかな?

結果にしか興味がない。結果を生み出す元となるものに対する興味をどうして持つのか?

 

 

質問者さんは常に結果を求められて生きてきたのかなぁとか、もしくは人にひどく裏切られた過去に対しての防衛本能が働いているのかなぁとか、多分すごく勉強好きなんだろうなぁとか、いろいろ妄想が捗る。他人に興味がなさそうなこの方が私に質問をくれたの、奇跡じゃないか?ありがとうございます。

 

 

てな感じで・・・・・・・・・

まさに、これでしょ?これだよね?

私の他者への興味の持ち方はこんな感じだ。

 

 

 

私も、質問者さんと同じところはある。

” 研究している学問や生み出した創造物、自分の知らない場所といった『人から発生したもの』についての興味 ”

まぁ誰にでもあると思うが、個人によって違うのはその広さや深さではなかろうか。その領域が広く浅い人もいれば、狭いが深く掘り下げる人もいるだろう。

私は割と広く浅くタイプで、いろんなことを知ってみたい、いろんな世界に触れてみたいと思い日々を過ごしている。だから自分の専門分野や将来とは直接つながらない資格の勉強とかが好きだったりする。私は数学を専攻し音楽を愛する大学生だが、この前は色彩検定を受けたし、今度はメンタルヘルスマネジメント検定にチャレンジするつもりだ。プログラミングにも興味があるし、去年はそういえば秘書検定なんてものを勉強して取った。

ちょっとした知識が、生活を豊かにすると思うし、なんならその振り幅が広い方がいいだろう。触れたものの中で、掘り下げたいことはどんどん掘り下げていったら良いのだ。

・・・というスタンスなのだが、きっと質問者さんはタイプが違う。恐らく、人一倍というほどだから広く深くタイプだ。あらゆることに精通し、常に探究心を持って勉学に励んでいるに違いない。全く頭が上がらない・・・。

すごいことだ。きっと得た知識はさまざまな場所で役立つだろう。

 

 

 

 

私は、人間ひとりひとりが持つ能力、またはエネルギーの総量には大差がないと思っている。

突然何を言い出すのかという感じだが、常々思っていることだ。

しかし、人々は常に、他人に対して劣等感や、はたまた優越感を抱いて生きる生き物である。比べるということは、それだけ差があるということだ。

じゃあ人によって何が違うのかというと、その能力やエネルギーをどこに使うのかということではないだろうか?

そもそも私たちは、地球上にウン万といる生物の中の一種だ。そんなに個体差があるとは思えない。

個体差はないが、個性は往々にしてあるだろう。そう思っている。

・・・生物を専門とする人に怒られそうなことを偉そうに言うのはここら辺で止めにしておく。

 

つまり何が言いたいのかというと、私とあなたとでは、エネルギーを向ける方向が違う。それだけなのだ。

あなたが100の興味を結果に向けている中で、私は50を結果(産物)、50を結果の要因(人間)に向ける。どちらが偉いということはない。

 

 

では、なぜか?(やっと本題)

 

 

せっかくなので、数学の証明問題について考えてみる中で、その理由を見つけようと思う。(まーた数学かい!)(本題に行くかと思ったら、また話が長くなりそうだ…。)

 

とある証明問題を解かなければいけないとする。

その問題をどうやって解くか、それは”人それぞれ”だ。

 

さて、いろんな人の解答を集めてみる。

 

ここで多分、質問者さんはいろんな人の解答を並べて順番に見て、「ああなるほどこうやって解く人もいるのか」「この公式をここでこう使えばいいのか」「こんな証明方法があるのか、知らなかった」とどんどん吸収していくのだろう。

 

もちろんそれで十分だ。だが、私は少し違う。

私の頭の中はこうだ。

数学の証明問題へのアプローチ方法や詳細な記述の仕方には、面白いくらい違いがある。なぜだろうと思わないだろうか?証明問題なんて目指すべき結論が決まっているものだ。高校レベルの問題ならばある程度解き方のようなものが決まっているものが多く、これには個性なんて出しようがないように思える。それなのに、解答をよく見ると、解法も記述方法も面白いくらい違う、なんてことが多い。

 

質問者さんは多分その事実を「事実」として正面から100吸収するのだろうが、私は「なぜ?」と、論点を少しずらしていく。「事実」それ自体からは一旦離れるわけだから、質問者さんのように100は吸収できずせいぜい70くらいだろう。しかしずらした方向から違うエッセンスを20~30吸収できる。

そして、ずらす方向は「人間」だ。なぜなら、それを作り出したのも、吸収する私も、人間だからだ。数学の問題を数学の問題で終わらせないことによって、多面的な発見や成長を見込める、と考える。

 

私は中学生の時から数学が得意で友達によく教えていたので、いろんな人の解法や思考回路を知る機会が多かった。その蓄積から、数学の証明問題に対するアプローチには、

 ・何の証明方法(アプローチ方法)を知っているのか

 ・いつ、どんな方法で会得したのか(例えば授業だとしても、どんな先生に習ったか)

 ・その人自身がどんな性格か

これらのことが深く関わっていることが多いと私は考えている。

考えすぎだと思われるかもしれないが、これだから私は数学が好きなのだ。

上に挙げたようなことを、想像したり調べたり実際に聞いて知ったりすると、数学に関する発見に限らず、様々な人間模様や、意外なところからのつながりなんかも見えてきて、いろいろな発見につながり、結局それは最後には様々な面で自分の糧になる。なぜなら因果関係を見出す作業は一つの物事を"広くシンプルに"するからだ。

 

もちろんこんなことを無視して、結果として作り出された証明だけをみれば、勉強としては、産物としては、十分かもしれない。しかし、「どんな過程があってこの証明が作り出されたのか?」を考えると、証明への理解だけではなく、他のことにも理解が生まれるのだ。豊かな産物が得られるのだ。

豊かな産物は、次に繋がり、己の世界を広げる。

トマトが好きならトマトだけをたくさん収穫するのも良い。が、他のいろんな野菜もたくさん収穫した方が、立派なサラダが作れたくさんの栄養が摂れるであろう。

と、あくまでも私は思うが、トマトしか愛せない人もいるだろうと思うし、立派なサラダが全てだとは思わない。ただ、私は栄養豊富なサラダを食べたいから作るだけだ。

 

 

今は数学の証明問題の話に絞ったが、話を拡張するともっと分かりやすいかもしれない。

例えば、生きていく上で日々ぶつかる問題や、何か仕事で起こったトラブルに対して、どのようなプロセスを踏んで、どう立ち向かっていくか、それは人によって違うだろう。

これはやはり「個性」というものであって、確かにそれで話を終わらせてしまえるのだが、「なぜその選択をしたのか?」「なぜその個性が生まれたのか?」、これが見えると、面白いくらい学べることが増える。

生い立ちを知ればなるほどと思うことかもしれない。それを聞いて、そんな環境があったのかと知ることができれば、それがどう影響しているかを想像すれば、視野は確実に広くなるはずだ。自分では経験できない、そして想像もつきづらい話を聞き思いを馳せることによって、井の中の蛙は大海があることを知る。

読んだ本や見たアニメからの影響があることは多い。その影響は、きっと他の場面でも現れるだろうから、知っておけばその人の思考回路のからくりの一部が見えるかもしれない。人と接するにおいて一番難しいのは「相手が何を考えているかわからない」ことではないだろうか。それが、少しだけわかるようになるかもしれないとしたら、これは大きな収穫だ。

 

どんな感性に触れ、そしてどんな感性が育ったのか。

私はそこに興味があるし、それを知っていく中で人間を好きになれる。世間一般に言う、好きだから興味を持つというよりは、好きになるために興味を持つと言ったほうが正しいかもしれない。

 

 

 

 例えば、J-POPの曲一つとっても、「どうしてこの曲を書いたのか?」「なんでこのような歌詞になったのか?」を知ることによって、作詞作曲の人の経験、そこから何を感じたのか、それをどうやって表現するのかが、より理解できる。そうすると、曲自体に対する理解は深まるし、その制作プロセスへの理解はいつか何かに役立つかもしれないし、何よりその曲やその人に抱く感情がはっきりするだろう。「この曲いいなぁ」「この歌詞好きじゃないなぁ」だけでは終わらないのだ。

 

 

 政治家には、いろんな考えを持つ人がいる。同じ日本で生まれ育った人が多い中で(そうでない人もいるが)、ある政治家とある政治家が真反対のことを唱えているのを見る機会は少なくない。というかしょっちゅうだ。もちろん戦略的なところもあるのだろうが・・・。

例えば私自身と全く意見が合わない政治家がいた場合、どんなに自分の意見に自信があったとしても「この人の考えていることは間違いだ」とは思わないようにしている。ただ考えが違うので、直接理解はなかなかできない。そんな時に、その人自身に興味を向けてみる。どんな教育を受けてきたのか?何を学んできたのか?どこに身を置いた経験があるのか?一体どんな環境で育ったのか?・・・賛成はできなくても、なるほどそういうことか、となることが多い。

じゃあそういう人と討論しようとなった場合、どういう風に論を組み立てるかを考えるにおいて、その人自身への考察は大変参考になる。結果だけ主張しあってもどうせ分かり合えないのだから、もっと根本から攻め、崩すのだ。

(ちなみに一応補足だが、討論は相手を言い負かす事が目的だとは思っていない。ただ相手の考えのどこが自分と違って、どうして違うと捉えるのかを相手に伝えることは重要だろう。そして自分の意見を少しでも理解してもらうことが必要で、そのためには、、、といった話だ。)(明らかに”攻め、崩す”という表現がよくない。笑)

 

 

少し攻めた発言をしたくせに弱気になったが、政治的な話題でなくとも、説得をする時や話し合いをする時、結果だけを主張したり、理由を分かりやすく噛み砕いて説明したりするだけよりも、結果に至る思考の道を正したり指摘したりする方が、相手が受け入れやすいと思わないだろうか。

 (まぁこんなことをしているから、可愛くないと言われるのだけれども。)

 

 

 

つまり、人間に興味を持つのは、まずは正直、自分のためだ。視野を広げるためにも、コミュニケーションを円滑にするためにも、得るものが多い。これを本能でそうしていると思う。

そして、相手をより好きになれる楽しさがあるからだ。知らないでなんとなく好き、よりも、いろんなことを知って好きになる方が深い愛が持てる、気がする。もちろん嫌いになる場合もあるが、明確な根拠がある「嫌い」は自己嫌悪に陥らないし、対処法もわかるので、なんとなく嫌い、よりよっぽど良いと思う。

 

 

 

 

なんだか仰々しくいろんなことを書いてしまったが、これは私の思考回路を明示するためであって、こんな小難しいことは普段考えていない。

結局は「人間って面白いなー」と思うから。それだけだ。

 

 

 

質問にはこんなことが書かれていた。

「...人間関係を『サービスの交換』つまり『あれをしてくれた見返りにこれをする』という形で捉えていて、」

 サービスの交換は、「同じ価値観を持つもの同士で行う」ものでないと完璧には成立しない。『あれをしてくれた見返りにこれをする』の「あれ」と「これ」が同じ価値かどうか判断するのはそれぞれであって、どちらに正解も不正解もない。そのサービスの交換は、成立しない方が当然ではないのか?と思う。

 

悪いことではない。

「自分の与えた分以上を求めて拒絶されても文句は言わず、逆に支払いに釣り合っていないと感じたら何も言わず距離を取り、...」

質問者さんは期待もしていないのだ。

 

でも少しもったいないなーと思ってしまう。

散々書いた通り、例えばサービスの交換によって得られる結果自体は、自分が支払ったものより軽くて薄いかもしれない。釣り合ってないかも思うかもしれない。ただそこに、相手の価値観を見出してみてはどうだろうか。自分とは違う価値観を知ることによって、得られるものを増やすことはできないだろうか。もしかしたら自分が吸収できるものは、自分が与えたもの以上にならないだろうか。

 

 

 

文章が長すぎて、自分で言いたいことが伝えられている自信がこれっぽっちもない。

私は常に相手の反応を見て話をする人間なので、一人語りが苦手なのだ。

・・・ブログ、向いてないじゃんということに改めて気付く。

 

読んでくださった方は、こんな考え方もあるんだと思ってくださればそれで十分だ。

質問者さん、本当にありがとうございました。本当はもっとあなたの話が聞きたい。