失ったものは、かえってくるだろうか
ここ数日、咳がおさまらず喉の痛みが激しい。
普段体調を崩しても頭痛や鼻にくる症状が多い私は、あまり抱くことのない喉の違和感に非常に戸惑っていたのだが、「まぁちゃんとうがいして保湿しておけばそのうち治るだろう」くらいに思っていた。
しかし今朝、目を覚まし母親におはようの挨拶をしようと口を開いたら--
声が、出なかった。
びっくりした。自分では口を動かし喋っているつもりなのに、5m離れたところにいる母親の耳はそれを捉えず、目の前の縫い物に夢中で、私の存在を知覚しない。普段だったら、すぐに顔が上がり、おはようって言ってくれるよね?あれ、なにこれ?
肩を叩こうと近づいたところで気づいてもらえたので、私は『(喉を指差し、腕をクロスさせて)声が、出ない』と伝えた。母親は病院に行った方がいいんじゃない?と言う。素直に頷く。
かかりつけの病院は休診日であったため、向かった耳鼻咽喉科は初めて行く場所だったのだが、かなり混雑していた。比較的暖かい日が続いていることから、花粉の飛散量が増えているからだろうか。
「2時間は確実にかかるので外出してきて良い」と言われたので、母親と待ち合わせて近くのカフェに入り、ガレットを食べた。
このお店のガレットを食べたのは中学受験の時以来だなぁ懐かしいなぁと思い出したが、声が出せないからそれを母親に共有できない。口パクで何度も伝えようと試みても、なかなか上手くいかない。最終的には、目の前にいるのにLINEで要旨だけを伝える簡潔な文章を送り「あぁ、確かにそうだね」と簡潔な返答を貰った。
一応伝えたかったことは伝えられたはずなのに、精神的にとても疲れてしまった。私は目の前にいる人と、コミュニケーションを取ることを諦めた。
コミュニケーションを諦めると、自分自身と喋る他はない。私が私の様子を伺い、真っ先にかけた言葉は、「今失っている声は、かえってくるだろうか」だった。
大袈裟だと思うだろう。
けれど私は過去の経験から、不安と絶望に襲われていた。
*
高校三年生、受験生。
それなりの進学校でそれなりの成績だった私は、部活も引退し、さぁ勉強するぞ!と意気込んでいた。
勉強はそれほど嫌いではなかった。きちんと計画を立てて、きちんとやればやるほど点数がかえってくる。大学もそれなりにいいところを目指していたし、模試の判定もそれなりだった。
それなりの判定とは言っても、もちろんそれなりの得意不得意がある。
私は国語が苦手だった(だったらこんな文章を書いて人に読ませようとするな)。特に古文は好きにもなれない。ナントカ活用とか、小テストの時だけ覚えてすぐに忘れてしまうから、結局身につかないのだ。
忘れもしない、6月19日。
その日は1限から古文の授業で、しかもその日のその古文の授業は板書の量がとても多かった。嫌いな教科のノートをひたすら取る時間は苦痛だ。朝イチ故の眠気とも戦いながら、なんとかチャイムがなるまでは集中する。
10分の休憩を挟み、さぁ次は大好きな物理の授業だとルンルンしながら、教室を移動するため荷物を持とうとした。
荷物、と言っても、その授業に必要なのは薄めの物理ノートという教材と、筆記用具のみだ。
左手に筆箱を持ったあと、ノートを右手に持つ。
…あれ?
右手に持ったはずのノートは、床に落ちた。
騒がしいはずの教室で、「パサッ」という音が響き、その後しばらく、私の耳は他の音を拾うことができない時間が流れる。
なんかおかしい?いや、眠いからなぁ?と思い、拾おうとする。……拾えない。
理解、というものができなかった。ノートをたくさん取ったから、私の右手は疲れちゃったんだろうか?でもノート一冊すら掴めないなんて、何事だろうか?
とりあえず、近くにいた友達に話してみる。「なんかさぁ、ノートが持てないんだけど……?」
へ?どうしちゃったのー?何言ってんのー?と笑うクラスメイト数人を尻目に、困惑した私を心配してくれる友達もいた。彼女は陸上部のエースだったが、引退試合の2週間前に病気になり、そのまま部活をやめた子だ。
保健室に行った方がいいよと言われて、素直に頷いた。物理の先生に状況を説明して保健室に行くことを伝えたが、先生もよくわからないといった顔だ。当たり前だ、私が一番よくわかっていない。
保健室の先生に状況を説明した。するとこう言われた。
「貴女それより、顔色が悪いわよ。」
手には雑に湿布を貼られ、脳貧血という診断をされてベッドに寝かされた。授業は最初の10分程だけ出られない、と思っていたのに、きっちり1時間休まされた。当然寝れるはずもなく、ただただ「これはなんだ?」という7文字だけが渦巻く中で、ベッドに横になる1時間を過ごした。
物理の授業は次の時間も続く。2時間連続で休むと追いつくのが辛くなるなと思った私は、「もう大丈夫です」と言って保健室を出た。
「脳貧血」と書かれた診断カードを持って授業に顔を出した私は、物理の先生に笑われた。
一通り笑われたあと、「それで手は治ったの?」と、笑いながら流していた涙を拭きながら聞かれたが、私は首を横に振ることしかできなかった。
「そう、ノートは誰かに後日見せてもらいなさい。寝るんじゃないわよ?」と言われ、素直に頷く。
寝ることはしなかったが、授業の内容が頭に入ることもなかった。
早く治ってくれないと、2週間後は期末試験なのになぁと、のんびり考える。
*
2週間後の期末試験、
受験生の勝負の時!と言われる夏休み、
秋からの追い込みの時期、
そして受験本番、
私の手に"力"が戻ることはなかった。
物を掴めない、つまりペンが持てない。
受験、なんてものがうまくいくはずがない。
あのノートが手から滑り落ちた時、その状態が何ヶ月も、何年も続くと、どんな出来た人ならば想像がついたんだろうか。
筆まめだった私が泣きながら短い手紙を書くように、
3歳から続けてきた大好きなピアノが初級グレードのものしか弾けなくなるように、
クラスで一番だった握力がたった1/5に、
ペットボドルの蓋すら開けられなくなるように、
細くて綺麗と言われていた手に毎日湿布が貼られるように、
そんな風になってしまうなんて、今までにどんな徳を積めば、想像がついたんだろうか。
*
原因がわかったのは発症から2年後。その2年間は、何件病院を回っても皆首をかしげ、思い思いの治療を施されるが何も変わらない、そんな毎日だった。
原因がわかってからはそれに相応しいリハビリを続けているが治ることはなく、今でも変わらず苦労がある。慣れてきたとはいえ、ふとした瞬間に普通の人が知らないような困難に陥って、一人で静かに"失う前の"自分を思い出し、何がいけないんだろう何で変わっちゃったんだろうと涙を流す。
私は高校3年生の6月19日に、手の力を失った。
多分、もうかえってもこないものだろうと、そんな予感がしている。
*
喉の様子を診てもらった病院では、「う〜ん、まぁ風邪じゃないかなぁ」と言われた。
そうかもしれない。その可能性が高いだろう。
しかし、あの時、「う〜ん、まぁ腱鞘炎じゃないかなぁ」と言われ、それならよく聞くしすぐ治るかと楽観的に捉え、何度ブロック注射をしてもどんな薬を飲んでも一向に治らない、あの不安感を、あのどんどん深く濃くなっていく絶望を。
ふと世界の音が消え、自分の咳をする音だけが頭に響く、そんな小さく揺らめく絶望を。
同じ絶望だったらどうしよう、という絶望を。
どんな風に表現したら、伝えられるんだろうか?
失ったものは、かえってくるだろうかーー。