ぼやきたくもなる世の中

〜秩序のない現代にドロップキック〜

大学を中退した23歳女の嘆き

今日、4年半籍を置いた大学に、退学届を出した。

 

入るのに苦労した大学。一般的な4年という長さ以上在籍したくせに、卒業できなかった。

という事実が、ただただ悔しい。第一に感じるのは、己の力不足、弱さ、不甲斐なさだ。

 

高校三年生で手の病気を患って、普通に書くことができなくなった。他にあまり例がないもので、はっきりした病名は付かず、大学側に理解してもらうために何度も何度も、さまざまな大学に電話をしたり足を運んだりした。その中で、理解を示してくれた大学の試験を受け、なんとか合格した。一年浪人しても、当初目指していたレベルの大学ではなくても、ただただ嬉しかった。ここなら私でも頑張れると、思ったからだ。

 

試験を受けるにおいてネックになった手の病気の他に、私はいくつかの病気を持っている。といってもそれも、普通の人が想像しやすいような分かりやすい病気ではなく、お医者さんですら分からないことが多いもので、ただひたすら苦労した。急に一週間寝込むような体調が不定期で続いたり、期限不明で急に入院することになったり、それはそれは自分でも予想のつかない展開になることが多かった。その度に大学には連絡をし、診断書も出して、相談をした。私の主張は一貫して「こういう状況になった/なる可能性があるが、ここで勉強させて欲しい」というものだ。

沢山の出席重視の科目。その授業の資料を下さい、追加の課題があればいくらでもやります、だから配慮いただけませんか。ここで勉強したいんです。テストだって余分に受けてもいいです、厳しい評価でも構いません、勉強させてください。

だけどそれが受け入れられることはなかった。大学側の主張は一貫して「特別扱いはできない」だった。

 

うん。特別扱いだと思う。出席重視の科目に、出席が足りなくてもいいですよなんて、確かに特別扱いだ。なかなか欲張りだったとは思う。それは十分わかっている。

 

でもじゃあ、配慮ってなんだ?平等ってなに?私が要求した内容は、本当に不可能なことだったんだろうか。

 

私が在学していたのは女子大だった。女子大はもともと、女性の立場が弱かった時代に、「女性にも学ぶ権利を!活躍できる世の中を!」との主張を持ち発足したと認識している。

ここ最近は、トランスジェンダーの学生の受け入れを検討し、話し合いが重ねられている。もう複数の大学でその方針は決まり、今は様々な調整をしている段階だろう。

学びたい人の学ぶ権利を保障したい、という大学側の姿勢が感じられる。一方で、どうだろうか。私は、病弱という理由で、突っぱねられた気分でしかない。

 

いや、わかっているのだ。最低限の決まりがあって、そこに沿わないとダメなことくらい、わかっている。それが社会だし、学校という場所だ。

でも、女子大の「女子」という部分の意味を広げる柔軟さはあるのに、どうして既に在学していて事情がある学生の、学ぶ機会を得る条件は狭いままなのだろうか。正直、世界基準に合わせようとする前に、まずやることがあるだろう、と悲しく思ってしまう。

 

弱者が権利を主張するのは難しい。わがままだ、甘えだ、と思われる、そして実際に言われる。この状況でそれでも主張し続けるには、わたしには強さと健やかさが足りなかった。不甲斐なさを痛感する一方で、こんなままじゃ、多様性を認める流れはまだまだ定着しないなと思う。仕方のないことなのかもしれない。でもそうやって諦めて良いのだろうか。

 

わたしが在学している途中、支援室なるものが門戸を広げた。障害を持つ人への支援の他に、病弱の人に向けても支援をします、となったのだ。わたしは歓喜した。そしてとても感謝した。アポを取って、支援室の方とお会いして、大学にいらっしゃるお医者さんとも話して、大変ですね事情はわかりましたとご理解を頂いた後に、言われたことはこのようなものだった。

「でもね、会議で通らないとあなたの配慮は決まらないの。わたしがいくら納得しても、会議を通さないといけないの。その会議には偉い人がいっぱいいて、その人たちには伝わらないかもしれない。厳しいのよね。」

あぁ、結局何にも変わってないな、整えてるのは表面的な体裁だけで本質は何も変わっていないな、と落胆した。伝えられることは一通り伝えたが、結局後日届いた通知は、今までの対応とほとんど変わらないものだった。

 

今年の4月、大病が落ち着いてきたから気合いを入れて頑張るぞと思っていた矢先、目の病気になった。光が駄目になって、自分の部屋のカーテンを閉め切って電気を全部切っても、カーテンから漏れ出てくる光が白い壁に反射したものだけで、激しい頭痛と嘔吐、目の痛みに襲われた。外に出られない状況になって1ヶ月半、症状が落ち着き、大学に行って授業を受けようとしたわたしは、教授に「もう欠席できる上限を突破したので、あなたの席はここにはありません」と言われた。事情を説明しても、「こういう決まりなのです」の一点張りだった。他の学生もいる中で、ぼろぼろ泣きながら授業を受けさせてくださいと懇願したわたしはさぞ滑稽だったであろう。わたしの心は、そこで折れた。

 

今まで4年半、状況を見て休学した期間もあったが、しがみついてきた。何とかなりませんか、勉強をさせてくださいと、何度も伝えた。だけどもう駄目だと思った。この大学が守れるのは、わたしのような事情を抱える学生ではなく、席に着き居眠りをしスマホをいじる学生なのだ。

退学を決めてからは、もっと早くこうするべきだったと思った。時間の無駄だった。結果論でしかないけど。

受験の時、主治医の先生が「受験というのは、一般的だ普通だとされる条件をもってしてでないと、フェアに受けられない。それは入学しても同じ。無理しないほうがいい」と言われたのを思い出した。当然受験するものだと思い込んでいたわたしは、それでも頑張りたいと協力を仰いだが、思えばあの時選んだ道が間違っていたのかもしれない。違う道を選んでいれば、生きやすかったのかもしれない。だけどもうわからない。普通なんてクソ喰らえだ。

 

10月から、通信制の大学に編入する予定だ。通う授業も試験も多少あるが、基本的には家で受けられる授業と、こなす課題。一人で進めなければならないが、学びに執着してきた気持ちを忘れずに頑張りたいと思う。

 

学生というのは比較的自由な身だ。社会人になると、こんなことは言ってられなくなる。もちろん分かってる。ちゃんとそれなりに健康にならないと、この先どうせ躓くことは、知っている。

早く自立がしたい。生きるために必要なものを1人で完結できるようになりたい。社会の歯車の一端になりたいとも思う。しかしそれどころか、学びたいことを学ぶ権利すらないらしいわたしは、じゃあどうやって生きるのが正解なのだろうか。あぁ頭が痛い。

私はタピオカが飲めない

先日、随分と懐いてくれている後輩がこんなことを聞いてきた。

 

「先輩って、なにか欠点あるんですか?欠点が見つからな〜〜い!」

(※勿論バカにされています)

 

私は真顔で答える。

 

「あるよ。タピオカが飲めない」

 

すると後輩の顔も、みるみる真顔になった。

 

「あはは、なにそれ、あは………え?」

 

「……タピオカが、上手く飲めない」

 

 

あれ、みんなどうやって飲んでるの?

吸ってもタピオカ上がってこなくない?タピオカさん、そんなに私に飲まれるのが嫌なの?私タピオカに嫌われてるの?

 

私は何か上手くいかないことがあった時、必ず原因を考え対策を練る。まぁ当たり前のことだ。で、タピオカが吸えない理由を考えるのだが、これがわからないのだ。

考えられる理由1、吸引力が弱い。しかしこれはすぐに否定できる。中学1年生から10年以上、吹奏楽部でフルートを吹く私は、肺活量はかなり鍛えられているはずだ。一瞬で息を吸う訓練を積んでいる私が、なにも考えずに飲んでいる(大きな尊敬に値する)JKより弱い力で吸っているということは考えにくい。フルートと言えば、チューバという大きく低音が鳴る金管楽器と同じ肺活量が必要と言われている楽器なのだ。

考えられる理由2、ストローのポジショニングが悪い。これに関しては他の人を参考にしないと分からないので、一緒に飲む人に片っ端から聞いてみた。大体第一声には「考えたこともなかった……」なんて言われる。分かっている。タピオカは今大流行りしているが、こんな風に真剣にタピオカと向き合っているのは私だけなのだ。観察させてもらうと、タピオカが固まっているエリアにストローをポジショニングしている以外に気づけることはなかった。そんなこと、もちろん私もしている。ストローをカップの底に付けてしまい、タピオカが吸えないことがないようにも、もちろん気をつけている。

しかも私は知っている。最近、タピオカの量を売りにしているタピオカ屋が多く、1吸い当たりタピオカ1粒だけではタピオカは飲みきれないのだ。ということは、1吸い当たりタピオカを2〜3粒は飲んでいるということだ。どうやったらそんなことができるのか。1粒ずつ狙いを定めて飲んだこともあるが、1吸い毎に必ず1粒ずつ飲めているからといって、安心はできないのだ。待っているのは、ミルクティーを飲み干した後グロテスクに残るタピオカの層なのである。どうやったら、一気に平均2〜3粒も飲めるのだろうか。全く分からない。実に不可解だ。

 

私は憧れている。巷のJKやJDのように、友達と歩きながらタピオカが飲みたい。なんかいいじゃん、知らんけど。しかし、歩きながらだと、このように真剣にタピオカと向き合うことはできない。結果、残った層のタピオカを指差され、「え、嫌いなの?w」とバカにされる羽目になるのだ。バカにしてもいいから、なんでこんなことになるのか、誰か教えて欲しい。道行くJKを捕まえて「ねぇ、なんで残っちゃうんだと思う?なんでそんなに上手に飲めるの?」って聞きたい。なんでみんな澄ました顔して飲めるの?タピオカが飲めないって悩んだことないの?なんでなの……?泣

 

私は、タピオカは映画鑑賞の際にとても良いと思っていて、何故かというと腹を満たし喉の渇きを癒すこともできるからだ。どう考えても効率がいい。ということで、満を辞してタピオカを買い、トイストーリー4を観に行った。これは少し話が逸れてしまうが、トイストーリー4は1〜3が大好きだった私にとっては非常に衝撃的な展開で、エンドロールの際呆然としてしまった。さて、映画が終わり、明るくなる映画館内。なにも考えられないまま、手に持つタピオカに目をやると、あらびっくり、タピオカが4層ほど残っている。なんと・・・4層は初めてだ。せいぜい、普段は2〜3層といったところだ。うわぁ、やっぱり意識をしないで飲むとこんなにも悲惨な結果になるのだと思った。

実は少し期待していたのである。いつもごちゃごちゃ考えすぎて上手く飲めないだけで、他のことに意識を取られながら飲めば、実はすんなり飲めるのではないかと。しかし無念なことに、映画を観終わった後の私は2つのことで途方に暮れるのであった。

 

もう終わっているかもしれないが、先日スターバックスではピーチフラペチーノみたいなものが期間限定で売り出されていた。桃が大好きな私にとっては、絶対飲まなければならないものだ。ピーチフラペチーノ(いやこれ名前間違っているかも、ごめんなさい)には細かくカットされた桃が入っていて、太いストローで飲む仕様になっていた。少し嫌な心配が頭をよぎった。しかし、これはタピオカではない。桃だ。一般的なタピオカに比べ小さいし、何も心配はいらない。はずだ。美味しい美味しいと飲み進め、ズズズ……と飲みきった頃に底を見てみる。

1.5層ほどの桃が残っていた。

静かに席を立ち、紙ナプキンなどと一緒に置いてある小さなスプーンを取りに行った。こんなん誰が何に使うんだと思っていた。私だ。

深いため息が出たことは、言うまでもない。

「映画観に行こうよ」というデートのお誘いに少し抵抗がある

 

私は映画を観に行くことが好きなのだが、誰かと一緒に行くよりも、一人で観に行くことの方が圧倒的に多い。友達がいn……ごほん、端的に言ってしまうと、映画を誰かと一緒に観に行くのが苦手なのだ。

 

 

【映画は気分で観たい】観る作品の選び方

映画を観に行くことはつまり、「映画館」という箱の中に2時間前後拘束され、問答無用でその映像をぶっ続けで観せられることだ。途中喋る事ももちろんマナー違反なので許されず、ただただ受信する、インプットだけの2時間。その日のコンディションや気分によって、観れるものと観れないもの、観たいものと観たくないものがないだろうか?

その日になって初めて、そうでなくても前日や前々日になって「日常を切り取るような映画が観たい気分だな」「アクション観てスッキリしたいな」「ラブストーリーは今は観れないな」などと実感が湧くことがある。そんな気分に、相手に合わせさせるわけにはいかないし、相手にだって気分はあるだろう。二人で○○を観に行こうと盛り上がっていたのに、「なんか今日は○○の気分じゃないな」なんて言おうものなら、「えっ、○○が観たいって言ってたじゃん!?」と喧嘩は避けられない。・・・まぁ喧嘩はしたくないし、そもそもこんな事はもちろん言わない。しかし、結果としてどこか我慢して観る、とまでは言わなくとも、釈然としない何かをどこかに抱えた状態で観る、という結果になることがたまにある。同じお金を払うなら、もっと良いコンディションで観れる日に観たかったなぁ……なんて考えてしまうのはもったいない。

仕事ではなく趣味であり、時間や作品を選んで観に行くことができる映画。そんな映画は気分で、しかしちゃんと観たい。

 

【映画館は"逃げ"の場所】非日常空間を完璧に作り上げたい

先ほども述べた通り、映画館で映画を観るということはつまり、箱の中に2時間閉じ込められて問答無用で映像を観させられることだ。これは非日常空間として、良い逃げ場所になると思っている。特大の画面、迫力の音響、これも庶民の私にとっては日常から離れたもので、特別感がある。普段は食べないポップコーンも、普段は飲まないタピオカミルクティーも、非日常を作り上げる要素の一つだ。(ちなみに、私は映画鑑賞時にタピオカを飲む事を推奨している。喉の渇きも潤い、腹持ちの良いタピオカが空腹を防ぐためだ。さらに映画館のような暗い空間だと、我々おじさんおばさんが抱くような「タピオカって若い子の間で流行ってるあれでしょ……」という小っ恥ずかしさも感じる事なく飲める。)

(※今、映画館では非日常空間を完璧に作り上げたい、という話をしております)

しかし、隣によく知った顔があると、そこに日常が残ってしまう。完璧な非日常空間とはならなくなってしまうのだ。完璧な非日常空間を作り上げるには、きっと一人で行くのが良い。

ただこれは理由としては少し弱い。なぜなら、その非日常空間を2人で味わいたい!という考え方もあるからだ。それくらいの間柄の人とならきっと気にならないだろう。

 

【えっと何だっけあの、】直後に感想を喋るのが苦手

あぁ、これが本当に苦手だ。観ながらコメントできるなら楽しいのだが、全部を観終わった後に「あれはこうだった」「これはこうだった」という言葉が中々出てこない。一人で観に行くと、帰り道で少しずつ考えたり、日常で触れるものからある場面を思い出したりなんかして、整理することができる。だが、鑑賞直後には時間が足りていないのか、相手と喋りながら考えを整理ということが難しい。咀嚼する時間が欲しいのだ。そういえばその場で求められ発言した内容を後日悔やむことは頻繁にあるし、そういえばその場で与えられた議題についてのディベートも苦手。頭悪いんだろうな。

何か言わないとと思うと、「面白かった」「○○がかっこよかった」「○○の演技うまいね」などといった安直な感想しか出てこず、大変不甲斐なくなる。

一昨年、スパイダーマンホームカミングの映画を観に行った時、それまでアクションが多いような映画はあまり観たことがなく(しかし半年後にはMCUを片っ端から観るようになる)、しかも観たのが慣れない3Dだったことから、凄まじい臨場感に驚いてしまって、元々ない語彙力が底をつき、観終わった後ずっと「疲れた……」としか言えないということがあった。これは私にとっては『まるで自分がスパイダーマンになったかのような臨場感で、のめり込んで観てしまった。展開も息を飲む予測不能のもので、思わず力が入ってしまった』という、つまりは、面白かったよこの作品すごいね、というプラスの感想なのだが、もちろん一緒にいた人には「なんかごめん……疲れさせちゃって……」とマイナスに捉えられ(当たり前だ)、大きく反省したのであった。

このように、映画を観た後の感想を述べ合うことが楽しい!と思えない私にとっては、誰かと一緒に映画を観に行くというのはあまり心が踊らないイベントとなることが多い。一緒に観てる時間は個々が画面に集中しているし、終わった後もうまく喋れない。そんなことでは、私と一緒にいても楽しくないのではないか、時間を無駄にしてしまっているのではないか、と思ってしまうのだ。別々に好きな時に観て、後日会った時に「あの映画観た?」「観た観た!あれさぁ〜」と語り合うのが一番良いのではないかと思ってしまう。まぁしかしそれも、時間が経つと忘れてしまうことも多いから悩みどころだ。

 

【映画の醍醐味】余韻を楽しみたい

これが一番大きな理由だ。

映画館の音響って凄くないだろうか?私が定期的に映画館に行きたくなるのは実はこの音響を楽しみたいためで、野菜を切ったり紙がぱらっと落ちたり、そういう些細な音が際立って聞こえる感じがたまらない。足音ひとつとっても、ちゃんと左から自分の後ろを通って右に歩いていることがわかるようなリアルさだ。いや、リアルよりリアルな音を再現していると思う。特にIMAXはやばい。あれは凄すぎる。(これって巷で話題のASMRなのだろうか?よくわからないけど、音フェチな私にとってはASMRに一度ハマってしまったら抜け出せなくなる気がするので、動画サイトで検索しないように常に自制心を働かせている。)

(※今、余韻を楽しみたい、というタイトルで、映画館の音響がすごいという話をしております)

この様に映画を観ている時は音を楽しめるのだが、これは映画を観終わった後でも楽しみが続く。席を立って自分が歩く足音、人混みのざわざわ、コーヒーカップを置く音、信号が青になった時に流れる音、風で服がなびく音、、、。普通気にも留めないような音が、全部耳に際立って入ってくる。音が、立体的に聴こえるのだ。きっと耳が敏感になっているのだろう。このような状態には、映画館で映画を観た後、以外に陥ったことがない、特別な状態だ。まるで自分が映画のワンシーンに入り込んでしまったような、そんな感覚にもなる。私はこの映画の余韻がたまらなく好きだ。

しかし、誰かと一緒にいればもちろんその敏感さはすぐになくなってしまう。一人でいるとあらゆる音に向ける意識を、二人でいればその相手に向けるからだ。それはそれでもちろん楽しいことがあると思うが、折角なら映画の余韻を楽しみたいなぁと思ってしまう。

 

 *

 

さて、今まで「映画を一人で観たい理由」を述べてきた。これらが重なって、一人で観に行く方がいいなぁと思ってしまうのだ。

じゃあデートで映画を絶対に観たくないか?といえば、そうでは決してない。

 

【誘い方誘われ方に注意】「映画観に行こうよ」は具体性がなくて駄目

まず、デートへの誘い方としてよくあるのが、作品は特に指定せず「映画観に行こうよ」というものだが、その後「なにか観たいのある?」「そっちはどう?」と、多少グダついてしまうのが気になる。気を遣って、対して興味のない映画なのに「いいね観たいと思ってた!」という自分に少し苦しさを覚えることもしばしばだ。

誘い方に気をつければ、実現した映画デートは良いものになるかもしれない。最初から「あの作品を観たいんだけど興味ある?良かったら一緒にどう?」と誘えばいいと思うのだ。

「○日空いてる?」と言って要件を最初に言わない誘い方も悪。

「映画観に行こうよ」と言って具体的な作品を最初から言わない誘い方も悪。

観たい映画も最初から指定する、せめて選択肢を出す、くらいした方がいいと思う。(※もちろん、映画なら何でもいいので相手に全面的に合わせるつもりの場合、映画の趣味がよく合うことを知っている場合など、例外はある。)

 

【頭悪くてごめん】うまく喋れなくてもOK、もしくは沈黙が気にならない人となら行きたい

無理して喋ろうとするからダメなのだ。『やばい、感想言わないと、楽しかっただけでは薄っぺらい人間だと思われるかな、なにか言わなきゃ・・・。』そう思うから、いけないのだ。映画館を出た後、黙ってしまうと、さも映画がつまらなかったかのような空気になってしまうのが気になって、焦ってなにか喋ろうとしてしまう。でも本当は無理をしたくないのだ。ふと思いついた事を、思いついたタイミングで言うくらいが良い。思いつかないなら、ぼーっとしていればいい。そう思っていられる人となら、一緒に行きたい。

そういう人って周りに何人かいるんだけど、私の場合、大体映画を観に行こうとはならないのが難しいところだ。

 

【絶妙バランス】途中で手を繋がれた時のドキドキは尋常じゃないよね

私は手グセが悪く、常に何かに触れていたいタイプなので、大抵、泣く可能性も考慮に入れ、ハンカチを常に手に握って映画を鑑賞する。一緒に観にいけば、隣に座っているわたしはずっとハンカチをにぎにぎしているので、これが嫌な人は誘わないでください。さてある時、ハンカチから手を離しドリンクを手に取って飲み、ドリンクを置いた瞬間のその油断した手を、隣に座っていた彼氏の手によって包まれたことがある。この時、私は本当に、ドキドキした。正直もうストーリーの一部が記憶に残らなかったくらい、ドキドキした。その時の彼氏がどうだったかは知らないが、私は映画にすっかり夢中で隣をあまり意識しないようにしていたので、まさかそんな事をされるとは1ミリも思っておらず、その不意をつかれた結果、めちゃくちゃドキドキしてしまったのだ。その頃彼氏とはだいぶ付き合いが長くなってきていて、普段手を繋ぐ場面ではほとんどドキドキすることはなかった。のに、映画館でかかるマジック、なにこれ、すごい・・・。

映画館で手を繋ぐ、という事は、考えてみれば絶妙なバランスの上に成り立つドキドキだと思うのだ。前提として、私は公衆の面前でイチャつくことが好きではないのだが、映画館はパブリックな場でありながら、暗く、全員が画面に集中しているため視線も気にしなくて良い。この絶妙なバランス(何回言うねん)の中で、二人にしかわからない秘密を、視線を交えず共有している感じ、めっちゃドキドキするねん。なんか字に起こすとキモいんだけどさ、伝わってるかなこれ?

相手や映画の内容によっては「邪魔するなよ……!」とイライラしてしまうこともあると思うので、万人にオススメはできないが、こうやってデートで映画館に行けば、映画のストーリー以外を大いに楽しめることもある。

 

【お腹いっぱいになると眠くなるし】一人じゃポップコーンは食べられない

映画館のポップコーン、大抵はビックサイズだ。これのどこがMなんだ、これを一人で食べられるなんてただのマゾやろ、ポップコーン・マゾや!(意味不明) などと思うことがある。私がよく行く映画館には一人用の常識的なサイズのポップコーンがあるので問題ない・・・と思いがちだが、ポップコーン、一人で食べるとそんなに美味しくないということに気づいた。もう完全に私個人の好みの問題だけど。だってめっちゃ口パサパサするし、あとなんかガサガサと手に取る時の音や咀嚼する時の音が、映画の音を楽しみたい私にとってはうるさくて、デメリットの方が大きいように感じてしまう。まぁそれでも食べたくなることあるんだけど・・・。じゃああれの何がいいかって、隣の人と一緒に食べて、手が当たるかも〜みたいなプチドキドキとか、あとは味がよくついているものとついていないもの(特にキャラメルポップコーンは顕著)のどっちを取れるかみたいな小さなワクワクとかだと思っている。うわ、さっきから全然味濃いの取れへん!お前が全部食べとるんやろ!みたいな。あれが良くないですか。だから一人の時に買ってもあんまり意味ないんです、誰かと一緒に、ポップコーンを、食べたい。誰かと一緒に、映画館でポップコーンを・・・!

 

 

・・・あれ?

わたし、普通に、映画デート、楽しんでるな?

 

そんなもんか。

 

大抵は、考えすぎだと思う。

「最近、あの人から返事が来るのが遅い」「既読がつくまでの時間が長くなった」「予定が合うことが少なくなってきた」と悩み始めた時、相手はたまたま忙しい時期かもしれないし、たまたま読書にハマりだしてあまりスマホを見ていないだけかもしれない。あるいは、時間が解決してくれるようなその時その人の気分の問題かもしれない。いつだって自分自身に理由があるのではないかと考えるのは、自意識が過剰だとわたしは思う。

・・・と、言い切りたいところだが、そうもいかないのが現実だ。嫌われたのか、避けられているのか、他にもっと仲良しな人ができてどうでも良くなったのか。これを気にし始めると悪循環になる、と分かっていても、きっとどれかなんだろうなと考える。しつこい人は余計に嫌われるし、自分からアクションを起こせば起こすほどに負の気持ちが相手の中で加速する気がして、結局何も出来ない。減っていく交流。あぁもう、悩むのも体に悪いし考えるのやめようと、気持ちが切り替わりつつある中、急に来る連絡、「やっほー、最近どう?久しぶり笑」。

あぁ。そんなもんか。そう思いながら、久しぶり、元気だよ〜と返す。もう前よりも、気持ちは離れて・・・いや、そんなことはないんだけど、めちゃくちゃ嬉しいんだけど、意識して離そうとした気持ちを、すぐに戻すことは僅かに難しい。

平行線に見えるものも、1°ズレれば、どこかでぶつかり、そして離れていく。そうなる前に修正するためには、常にとはいかなくても、お互いが相手をそれなりに気にしてあげなきゃダメだ。平行線に見えるから、これは大丈夫だとよそ見していては、気づけばガシャン。これは常に念頭に置いておきたい。

 

 

バス停でバスを待っている時、「暑くなったと思ったのに今日は寒いわねぇ」という嗄れた声が聞こえてきた。スマホの画面から目を離してそちらを見ると、私の次に並んでいるおばあちゃんが、おばあちゃんの次に並んだお兄さんの方を見上げていた。あぁこの二人の会話か、と認識してスマホの画面に目を戻し、ボールから出てしまったポケモンを再び捕まえようと手を動かす。4度目くらいの投球で漸くそのポケモンは捕まった。弱いポケモンなのに手こずったなぁ。まぁそんなもんかぁ。

現代社会は便利なもので、アプリを起動させると、自分が乗りたいバスが今どこにいて、何分待てば来るのかがわかる。そういえば京都に行った時は、バス停に「あと○分でどこどこ行きのバスが来ます」「そのバスは今●●のバス停にいます」なんて表示されていて驚いた。他のバスでも稀に見かける。全国のバス停に導入してほしいところだ。

さて、アプリによると、バスが来るまでにはまだ時間がかかりそうだった。近くのポケモンは全て取り終えて、手持ち無沙汰になった。

ふいに横を見ると、おばあちゃんはしきりに「これから買い物に行かなくちゃいけなくてねぇ」「お惣菜を買って帰ってもいいんだけど、できるだけ作りたいと思っているのよ」とゆっくり話していた。しかし、話しかけている相手のお兄さんは、引きつった顔をしている。知り合いではないんだろうな。お兄さんは「ッス」と首をへこへこしながら、イヤホンを耳にねじ込んだ。

まぁ、そりゃあ人間なんだから、話したくない気分の時もあるし、知らない人と話すのが苦手な人だって沢山いる。何より、突然話しかけられて世間話を始められたら正直戸惑うし、面倒だ。きっとお兄さんも面倒でイヤホンを耳にねじ込んだのだろう。わかる。

ところが、おばあちゃんはイヤホンの意味をわかっていなかった。まだ話しかけ続けている。お兄さんはスマホの画面に釘付けだ。多分わざとだろう。おばあちゃんは喋りを止める事はせずとも、返答もなければ目も合わないお兄さんの方を見る時間はどんどん減っていった。どこをみているのだろうか。目の前にある小学校の教室から聞こえる声に意識がいっているのだろうか。間を置きながらになりつつも、おばあちゃんの口は止まらない。遠くを見ながら喋る姿は、先程までよりも覇気がない。

急に悲しくなってきた。

確かに、隣に並んだだけの知らない人に話しかける行為は、褒められたものではない。話しかけられた側からすると、自分に全く関係ない話をされても、こっちは音楽を聴きたいしラインの返信もしちゃいたいしポケモンも取りたい。話は何だか回りくどい。知らないその人の話を聞いて、何かが得られることもそうそうない。ただ自分の時間が奪われるだけだ。隣のお兄さんは善人ではないが、悪いことをしているわけでは決してなかった。

おばあちゃんは、家に人がいるのだろうか。それとも1人なのだろうか。

私の祖母は、4年前に祖父が他界してからずっと一人暮らしだ。普段は近所の人とすれ違った時と買い物に行った時しか人と話さないから、貴女から電話がかかってくるととっても嬉しい、と声を弾ませているのを聴くと、本当は毎日電話したいなと思うのに、なかなかそうもいかない。

今隣にいるおばあちゃんが、どんな暮らしをしているかは知らない。もしかしたら3世帯住宅に住んで、毎日大勢で食卓を囲んでいるかもしれなくて、毎日たくさん喋っているのにそれでも満足しないような、手に負えないほどのお喋りおばあちゃんなのかも知れない。だけどそんなことはわからないので、考えるのをやめた。

手に持っていたスマホをバックの中にしまった。バスがいつ来てもいいように、手にPASMOだけを持って、おばあちゃんの目を見てみた。目が合って、出来る限りにっこり笑ってみた。大丈夫だろうか、不自然な笑顔になってないだろうか。

そんな心配は無用だった。そんなもんだ。おばあちゃんもにっこり笑って、私たちは実のならない話をゆっくり交わした。 別に私は善人ではない。半分以上は、自分のためだった。

 

 

例えば、夏の暑い日に、ショートパンツを履いて、薄い掛け布団を肌に直接感じるのが気持ちいい日もあれば、薄いガーゼの長スボンを履いて、掛け布団をお腹だけに掛けて足を出すのが気持ちいい日もある。それなのに、「風邪を引くから掛け布団をしっかり足まで掛けなきゃダメだ」と言ってくる人は、何なのだろう。纏うものが違うだけで、本質は変わらないはずなのに。

これはただの愚痴だ。別にここから話を展開しようとは思わない。ただ、本質を見ようとせず、自分の浅い経験や少ない知識で簡単にものを判断してしまうのは非常に危険だと思う。常に疑問を持って考えなきゃだめだ。聞いてるか!パパ!あんたのことだぞ〜〜!!! "そんなもんか。" で終わらせられるもんか!せめて一呼吸置いてから発言してくれ!じゃないとパパのこと、嫌いになっちゃうからねーーーっ!!!!

 

 

5月末、夜に散歩した話

 

何に、と聞かれると難しいのだが、耐えられなくなって、私は家を出た。夜の散歩は、最近覚えた芸だ。

 

週末は30℃を超え、うだる様な暑さだったが、週が明けると暑さは少し和らぎ、ギリギリ冷房をつけなくても耐えられるくらいになった。それでも5月下旬にしては暑すぎる。お風呂を上がった後の私は、キャミソールも着ず、カーディガンやパーカーも纏わず、薄いTシャツ一枚で外に出ることにした。時間は確か20時半くらいだった。ブラが透けない様に普段あまり着ない濃い色のTシャツを選んだが、ノーメイクの薄い顔にはいまいち釣り合わない気がする。しかし夜の散歩といえばもちろん暗い道を歩くもので、そんなことに構わなくていいのだ。このTシャツのままでいい。この小さな自由は、少し癖になる。

外に出ると、お前なぞ歓迎しないと言わんばかりの強くて短い風がブワッと吹き込んできた。肌に触れていた布が離れる。あれ、もしかしてちょっと寒いかな、と思ったが、歩いていれば体は温まるはずなので、そのまま出ることにした。何より、一度出たのにしょうもないことで戻りたくはない。

歩き始めると、普段履かないその靴は、右足だけよく脱げた。最初のうちの何回かは踵が脱げる度に立ち止まって直していたが、少しするともう面倒になってしまって、そのまま歩くことにした。高校を卒業するまで上靴を踏んだことは一度もなかったのに、23歳になってまで何に反抗しているんだろうか。

 

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本当は車が良かった。車に乗って、窓を少しだけ開けて、暫くしてゴゴゴゴという音が鬱陶しくなって閉まるまでが、良い。小さな頃から車の中で聴いていた、90年代のMr.Childrenのアルバム、そうだな、Kind of Loveあたりを流しながら、当てもなく、都会を走ったり海に行ったり、そんな感じが良かった。だけど、家にある白いベンツは、女子大生がそれをするのに似つかわしくない、立派すぎる車だ。父親がゴルフをしに行くときに見栄を張りたいからという理由で、だいぶ背伸びをして買ったらしいその車を、私は良く思ってはいない。車庫もないくせに白い車を買ったから、洗車をしないとすぐに汚れてしまうのだ。汚れた車が停まっているのは格好悪いからと私が定期的に洗車をしているが、娘に洗車されているこの車はどっちにしろ格好悪くないだろうか?休日の朝、父親にサングラスでもかけて鼻歌を歌いながら洗車して欲しいところである。……話がだいぶ逸れた。とにかく、自由を得るための手段としてその車は、Noだった。あと、Kind of Loveには「車の中でかくれてキスをしよう」という曲があるから、一人のドライブの時にそれを聴くのは少し辛いかもしれない。

 

本当は自転車が良かった。自転車に乗って、風を切りながら、スピードが乗ってきたところで意味もなく片手をハンドルから離して腕をブランとさせ、残った片手のみで運転をすると、いつも気持ちがいい。旅行先ではよく、自転車を借りようという提案をしてしまう。自転車が好きだ。だけど今、家に自転車はない。小学校の頃は毎日乗っていたが、ある時から雨除けのカバーをするのを怠ったことで、サドルが「いつ座ってもおねしょ状態」になってしまうようになり、メンテナンスも特にせず、取り替えることもなく、そして乗らなくなった。気づけば家から自転車はなくなっていたが、困ったことはなかった。ただこんな夜に、自由を得るためだけに自転車が欲しいと思うのは、流石に我儘で無駄だ、とわかっている。何より、このあたりは坂が多くて、自転車に乗るには全く適していない。後ろに小さい子供を乗せたお母さんが乗っているのをたまに見かけるが、必ず電動自転車だ。だけどこの自由を得るために電動自転車を買うのは、もっと違う気がした。じゃあ車なんてもっと駄目じゃないかと言われるとそれは別だと思ってしまうんだけど、その理由はうまく説明ができない。……話が少し逸れた。とにかく、私は自転車を持っていなかった。

 

結局、歩くしかない。

似合っていない服を纏っていても、踵が脱げても、車や自転車のようなスピードを出せなくても、歩くしかないのだ。だけどこれこそ自由だ、と思う。

 

 

家からかなり近い距離でも、普段全く通らない道が沢山ある。今通ろうとしているのは、小学校の時にクラスの意地悪な女の子から、「ここの家には銃を持った人が住んでいるから、頭を伏せて通らないと撃たれちゃうよ」と言われていた道だ。私と幼馴染の2人は、その発言を信じた。その家の前を通る時には必ず、2人で目配せをし、決心を固めて、頭を下げて小走りで通った。普通に歩いている人たちを、ハラハラしながら、少し遠くから見守った。意地悪なその子の発言が嘘だと気づいたのは、警戒しだしてから3ヶ月ほど経った後のことで、幼馴染と「あの子嘘つきじゃん!」とゲラゲラ笑ったのをよく覚えている。一緒にいると、怒りが沸くような場面でも全部笑ってしまえるような幼馴染だった。私たちは嘘だと気づいた後でも、その道を通る時は必ず頭を下げて隠れるようにして小走りで駆け抜け、通り過ぎた後は必ず「撃たれなかったね」と笑い合った。そんなことを思い出しながら、今の私も少し頭を下げて通った。

その幼馴染とは小学一年生の入学式の翌日に友達になった。大学生になった最初の頃までは「今年で知り合って14年目だね、すごいね」なんて言い合っていたけど、最近は数えもしなくなった。お互いの誕生日は何年経ってもうろ覚えで、だけど会うと必ず、ごく些細な思い出を何個か思い出して、なんであんなことしてたんだろうねと笑い合う。

今度、引っ越した幼馴染をここまで連れてこよう、と思った。たまに遊んでいた、少し遠くて大きい公園から家の方面まで歩けば、必ずこの道を通る。途中の駄菓子屋さんはまだおじちゃんがいるらしいから、そこも寄ろう。自転車や一輪車の空気が抜けた時に、50円玉を渡し空気を入れてもらっていたなんとかサイクルは、つい最近取り壊され、跡形も無くなってしまった。彼女はそれに気付くだろうか、きっと寂しく思うだろうな。あぁそうだ、それからーー。

 

あぁ、自由だ。そう思った。