おばあさんの手は少し温かかった
新横浜に来ると、いつも思い出す出来事がある。
もう何年も何年も前の話。
お正月のお年玉企画で当てた期限ギリギリの商品券を消化しに、ブルーラインで新横浜に向かった日だった。駅の売店で買い物をして貰ったくじがまさか2等だなんて思いもよらず、ギリギリまで放置してしまっていたものだった。気づかず捨てなくて本当によかった。
電車内では母親と、この商品券で何を買うか楽しく議論していた。私たちの趣味はあまり合わないんだけど、だからこそ二人が気にいるものを見つけられた時は楽しい。
ふと、視線を感じて右側に目をやると、おばあさんが私のことを見つめていることに気づいた。ドキッとしたが、何か言いたげな様子。(うるさかったかな……)と反省しながら、どうかしましたか?といった感じで首を傾げてみた。
おばあさんは「あのね……」と口を開く。
「新横浜へ行くには、この電車で合ってたかしら」
「合ってますよ。私たちも新横浜に行くところです」
「あぁ、よかったわ」
おばあさん、あなた始点から乗ってるから間違い用がないですよ……。
どうやらおばあさんはずっと不安だったらしく、それが解消された安心感からか、はたまた元からそういう方なのか、かなり饒舌に話をしてくれた。
おばあさんは娘さんから、一人で新幹線に乗れるようになってほしいと言われたのだそうだ。いつも娘さんについていくだけだったから、一人だとどうも心配で、今日は新幹線の改札まで行く練習で出てきたらしい。新横浜についたらトンボ帰りですかと聞いたら、少し買い物もする予定だと言った。
「新横浜に着きましたよ」
「あら、お喋りに夢中で気がつかなかったわ。一人だと不安ね」
「お一人の時は喋らないだろうからきっと平気ですよ」
座っていたから気づかなかったが、おばあさんは足が悪いようだった。杖は持っていない。降りたドアは目の前が階段のみだったので、「エレベーターの場所まで行きましょう」と提案したのだが、大丈夫よの一点張りだったので階段を登り始めた。
数段登ったところで、おばあさんは止まってしまった。「思ったよりきついわね」
「やっぱりエレベーターまで行きましょうか?それとも、手をお貸ししましょうか?私はどちらでも大丈夫ですよ」
「あら、じゃあ手を貸してくださる?ごめんね」
こうして私は、出会ったばかりのおばあさんの手を取ってしばらく階段を登ることになった。おばあさんの歩みに合わせて、一段ずつ。
右側にいるおばあさんの左手を左手で持ち、右手は万が一踏み外した時のためにおばあさんの後ろ側に回して、階段を登った。自分の祖母はまだかなりアクティブだった頃で、お年寄りと一緒に歩くのに慣れていなかった私は、このようなサポートが正しいのかずっと不安だった。階段がとてつもなく長く感じる。
そんな心配をよそに、特に危なげなく階段を登り終えた。ついほっとして、ふぅ……と長く息をつく。改札を出た後、エスカレーターを登って左側が新幹線口ですと伝えた。
「ありがとう。あなたはとっても優しいわね」
「いえいえ、そんなこと……」
「これ、今日使おうと思っていたのだけど、あなたにあげるわね。本当にありがとう」
そう言って差し出されたのは、なんと私たちが今日使う予定だったお正月企画の商品券だ。
「ええっ、いいです、私たちもこれ持ってるので!」
なんたって値段が値段、1万円分の商品券だ。
「いいのよ、あなたの優しさに触れて今日はとっても満足しちゃったわ。特に買いたいものもなかったから、あなたが使って」
「そんな、娘さんに怒られちゃいますよ、お気持ちだけで充分嬉しいですので」
「娘だってあなたに感謝するはず、ほらいいから」「本当にありがとうね、さて帰り方も練習しなきゃね」
おばあさんは踵を返してまた改札に行ってしまった。さっきの改札から入ると階段しかないけど大丈夫だろうかと心配になった。
半ば強引に握らされた商品券をどうするか、困った顔で母親の方を向くと、「それはあなたが使えばいいじゃない」と言われた。高校生の私には重い金額だ。
私は商品券を握りしめ、本屋さんに向かった。せっかく頂いたものだから、自分のためになるものに変えようと思った。
そこで買った中の一つが、おばあさんのことを思い浮かべて手に取ったユニバーサルコーディネーターの本だった。それからというものの、外出するたびに車内表示やピクトグラム、路線図や乗り換えの表示も気になるようになり、大学生になってから色彩検定も勉強した。
おばあさんからは、色んなものを頂いたとつくづく思う。もう一度会って、感謝が伝えられればどんなにいいものか。
新幹線で、隣に座ったりしないかな。当選者3人の同じ商品券を当てた仲だから、そんなことだってあるかもしれない。
だから新幹線に乗るたび、いつも隣や前後がどんな人か、少しドキドキしてしまう。
人のコンプレックスをジャッジすんな
誰か私のコンプレックスについて、話半分でいいから聞いてほしい。
コンプレックスというにも種類はあって、考えすぎてしまう頭でっかちな性格とか、大人数の前だと緊張しすぎて手が震えちゃうこととか、こんなことも嫌だなぁと思っているんだけれども、今回は外見のことに絞って話をしたい。
話半分でいいから、なんて前提をつけたのは、私が外見について言及するのがすごく嫌いだからだ。
自分のも、他人のもそう。
芸能人の話題ですら、「好みかそうでないか」ということ以外は誰かとあまり話したくないし、聞きたくもないなと思ってしまう。
受け取る個人がその外見についてどう感じるかはもちろん自由だ。この子は一番だと思ってもいいし、いや良さわかんねーと思ってもいい。ただ、それ言う必要ある?と思う。
外見について何か言うとき、他人と比較して優劣をつけたり、傷つけるような表現を使ったりする人、結構多いでしょう。あるいは無意識にそういう表現になってしまうことが多々ある。それが、聞くに耐えないのだ。
自分の外見についても、親や恋人、気の置けない友人の前ですら、よっぽど言及したくないと思っている。
例えば背が高いことについて、母親には「かっこいいじゃん」と励まされてきたが、どんなに褒めてもらえようが私自身は良く思ったことはほとんどない。人生でいろんな人に何度も言われた「デカい」という言葉の方が深く深く刺さって抜けないからだ。
しかもそのほとんどは、傷つける意思なんてなく、何気なく発されたもの。だから嫌なのだ。意図しないところで人を傷つける恐れがあることを、大抵の人はカバーできてないのである。
身長の高さなんて自分の努力じゃあどうにもならないものを、なんで高かったり低かったりしたらわざわざ言及されなきゃいけないのだろうか。
「褒めてるつもりだった」「貶すつもりはなかった」という人もいる。ほう、それじゃあ、外見をお前に褒められて私(その人)が嬉しがると思うか?出会ったばかりのあなたに?大して信頼もしてないあなたに?
……自分でわかっていても刺々しさが抑えられない悪文、お許し願いたい。普段は声に出さない心の声が、まだまだ続く夏の暑さによって溶け出してきたと思って頂きたい。それにしても暑いねぇ。
もちろん、褒めてもらえて嬉しい人はいる。たくさんいる。信頼関係ができた相手に「君のここ、いいよね」って言われるのはちょっと嬉しい。それから誰も傷つかない素敵な表現を使う人も多くいる。ありがとう、そういう人。あなたがこの世界を悪くならないよう保ってください。
だけど私が度々思うのは、「勝手にジャッジしないでくださるかしら」ということだ。
今からとても些細だと思われるであろう話をする。だけど、私にとってはとても大事なこと。話半分に、読み流してもらえれば嬉しい。
*
「コンプレックスってある?」
友達から深妙な顔で言われたのは、夕方の静かなカフェの一角、バイトに行く前に縋るようにして味わっているティータイムの終わり際だ。フロートのソフトクリームはだいぶ溶けてしまっていて、ティーソーダと綺麗なグラデーションを成している。ちなみに目の前に座っているのは割となんでも話す男友達。自分に自信を持つために外見から変えていきたい、という話を聞いた直後だった。
うーんと言いながら、ティーソーダをくるくるとかき回し、私は少しの間に沢山悩んだ。表向きのやつを言うか、裏に抱えるものを言うか、迷ったのだ。綺麗なグラデーションは崩れ、全体が濁った頃、「いっぱいあるけど……ウエストかなぁ」と返した。
「え?なに?」
「ウエスト。お腹のくびれ」
友達は豆鉄砲を食らったような顔で、目をぱちくりさせている。なかなかこんなことを言う人もいないし、無理もないだろう。想定内だった。
「いやぁ表向きには、背が高いこととか、一重まぶたなこととか、鼻先が丸いこととかあって、それももちろんコンプレックスなんだけど、自分を鏡で見た時に一番テンションが下がるのはウエストなんだよね」
豆鉄砲をまだ食っている友達は、目を見開いたまま「なんで?ダイエットしたいなーってこと?十分細いやん」と返してきた。「あはは、そんなことないよ、脱いだら凄いんだから」「お前な、そういうことはいい意味で使うんだよ普通は」といういつものテンポの会話をした後、ちゃんと説明しないとなと思い、腰を浮かせて硬い椅子に座り直した。
頭痛や長時間の酷い目眩、午前中の低血圧から来る不調に悩んでいたわたしは、数件の病院を回った。そうして辿り着いたのは世田谷にある小さな病院だったが、そこの先生は他とは違うアプローチをしてきた。
「首から背中、腰までのレントゲンを撮りますね」
散々頭のMRIやら脳波やらを撮ってきたわたしは、それだけでいいのかなと思ったのだが、腰付近のレントゲン写真を見てかなり驚いた。
「ま、曲がってる・・・」
「曲がってますね。それから、首も逆のS字を描いています。そりゃあ自律神経が崩れるわけです。背が高くて細身だから、そういう人は起立性低血圧にもなりやすいですね」
帰宅し、お風呂に入るために服を脱いだ時、鏡に写った自分を見て納得した。
だからウエストが非対称なのか。
ずっと気になっていた。右はくびれているのに対して、左はほとんどくびれがないのだ。よく見ないとわからないかもしれないが、一度気づいたらとても気になってしまうことだった。少し前より太った自覚はあったので、変なお肉のつき方しちゃったのかなぁと思っていたのだが、そうか、骨だったとは・・・。
それからというものの、見た目だけではなく、身体の不調にも繋がってるこのウエストを見るたびに、一層深いため息が出るようになった。最近は家で筋トレもしていて、僅かずつではあるが変化が出てきて喜ばしい反面、左右の差が顕著になってきて余計悲しい。痩せてるかな?とルンルンした気持ちで覗く鏡を正面から捉えた時、必ず落ち込んでしまう。ダイエットなんて理想の体型になるためにやっているのに、努力ではどうにもならない所が目立っていくのは、とにかくやるせない。
そして、もちろんそう簡単に治せるものでもないため、いろんな療法を試しながら騙し騙しで治療をしているのだが・・・長い時間をかけて向き合っていかなければならないのだ。
……ということを一通り話し終え、真剣に聞いてくれていた友達は「なるほど……」の後に、こう続けた。
「え、でもさ、そんな些細なことが出てくるとは思わなかったよ(笑) 外見であんまり悩んでないの、いいなぁ」
人のコンプレックスを自分の価値観でジャッジすんな、アホがーーーッ!!!!!!!!!!
*
やっぱり外見のことに言及するなんて良くない。
結局は、各々の自分の感覚や価値観、裁量でしかジャッジできないのだから。
まさに、言わぬが花、だ。
花……はな……鼻……
鼻といえば、幼少期からずっと兄からの嫌がらせで、毎日のように鼻を押し潰されていたせいで、絶対にぜっったいにそのせいで、鼻が丸くなってしまったという話は、また今度。
遠いと思っていたのは、わたしだけだった
「ねぇ、ちょっとベランダに出てみてよ」
まさかと思った。
「え、なんで?」
「いいからいいから」
という会話をして、恐る恐るカーテンを開ける。反射する部屋の光の奥に見える空は今日も雲に覆われていてどんよりと暗く、微かに滲む月明かりは天に囚われた誰かの魂のようだった。外の世界には流れというものがないんだと錯覚してしまうほどに、厚い雲は微塵だにしない。いや、実際微動だにしないなんてことはなくて、わずかな動きを感知する能力がわたしにはないのだ。例えば象には、この雲の動きはどう見えるのだろうかーー。さて、窓に向かって立ち尽くしていても仕方がないので、窓の鍵に手をかける。
窓を開けるのに少し躊躇った。もしかして、もしかすることがあるのだろうか。
「まだ?」
彼が催促する。
「ううん、もう出れるよ」
重い窓を20cm、30cmほどゆっくりと開けて、首を出して左右を確認した。
柔らかい風が頰を撫でる。それだけだった。
部屋に虫が入ってしまっては寝るときに困るので、ベランダに出た私はすぐに窓を閉めた。PM2.5という単語を聞くようになってから、手すりはいつも少し汚い気がしている。ポッケに詰めてきたキャラクターのハンカチを出し、そのキャラクターの顔が汚れないように上にした状態で、手すりを拭いた。キャラクターのハンカチなんていつからか持ち歩かなくなったが、いくら汚れてもいいやと家で使い始めてからの方が、十分に活躍している。もう随分と汚れてきてしまったが、まだまだ使うつもりだ。汚れる覚悟をしてからの方が活躍できる、これはきっと人間にも言えることである。
綺麗にした手すりに体重をかけ、息をひとつ吐き、有線イヤホンを片方外して、目を瞑って、頭の中を空っぽにした。感じるのは、右耳から聞こえるザラザラとした向こうの空気の流れと、左頬に当たる生温い風だけだ。そうやって空っぽになった時に真っ先に浮かんでくる言葉を、彼には伝えたいといつも思っている。
「ベランダに出る時、ちょっと期待しちゃった。いるのかなって。そんな漫画みたいなこと、あるわけないのにね」
ふふ、と電話の向こうで笑っているのがわかる。
「俺がいたら、嬉しかった?」
「うん。すごく」
「会いたいね」
「うん。すごく」
がっかりさせるためではない、ということは分かっていた。だが、それ以外は分からなかった。例えば彼の向かいのマンションには誰かが住んでいて、その誰かに向かって放った『ベランダに出てみてよ』なのかと、少し不安に思った。外に出るとはそういうことだ。遠く離れた場所にいる私よりも近くに感じる存在が、きっと沢山ある。
「あのさ、ありがとう」
彼は何の脈絡もなく、そう言った。彼もわたしと同じように言葉を選んでいるのだとしたら、これほど嬉しいことはない。だけどそう信じるには、まだ自信が足りなかった。
彼は続けて何かを言うかと思ったが、それっきり黙りこくっている。
「うん、どうして?」
ごめん突然、と言いながら、彼は一つひとつの単語を確かめるようにして、ゆっくりと喋り出した。
「君がいてくれることが、有難いと思ってる。本当に」
何があったのか、どうして今そんなことを唐突に言い出したのか、全く想像もつかない。だけど、胸の奥がきゅっと締め付けられ、僅かに苦しさと不安を覚えた。
「こんなに遠くにいるのに?」
ついこの間、自分の家と彼の家の距離を調べたら、直線距離で250kmほどあった。高校生の私にはとても具体的に想像できる距離ではなく、ただただどうしようもなく遠いんだなと、まるで異国の友を思うような心境になってしまう。
「遠いけど、言うほど遠くないと思うんだよ。だって電話は時差がなく通じるし、会いに行こうと思えば一晩で会いに行けるよ」
「一晩?夜に電車はないよ」
「何言ってるの、僕は車を運転できるんだよ」
「そっか、でも寝ててほしいなぁ夜は」
彼はふっと息を吐き出した。
「そうだね、でも寝れない夜は会いに行かせてよ」
一般的に、ロマンティックなピアノの旋律がバックに流れ、頬を赤らめてしまうような甘い言葉を耳にして、思ったより心は浮かなかった。どうせ来ないくせに、という言葉を辛うじて飲み込むだけだった。
彼はよくわからない人だ。だからこそ惹かれるといえばそれまでなんだけど、そう単純なものでもない。
彼は、私と似ている。外に出れば周りの空気や相手の機嫌を気にして器用に振る舞い、内に帰って来れば疲弊して一歩も動けなくなる。考えすぎと笑われるほどにいつも頭はぐるぐると働いていて、その動きを止められるのはセックスの最中と苦労して眠りについた後くらいだ。どこか冷めているところがあって、世の中にも上手くいかない人生にも、何となく諦めがついている。涙腺が弱く、思い出の曲を聴くと最初の2音で泣けてしまう。笑い上戸で、一度ツボに入ると誰にも止められない。身体が弱くて、常に絶望を背負って、生きている。
彼と私の違うところもたくさんある。彼が大好きなトマト、私は苦手だ。彼は歌が上手だが、私は恥が勝って上手く歌えない。彼はお風呂が苦手だが、私はしょっちゅう長風呂をする。彼は飛び切り頭がいいが、私は中の上くらいだ。彼は雷が好きでよく見惚れているが、私は怖くて布団にくるまってしまう。彼が抱える絶望は、私には殆ど見えていないのに、私が抱える絶望を、彼は簡単に理解してしまう。
「この前さ、君に言われたことがやっと分かったんだよ」
「わたし、なんて言ったっけ」
「インプットとアウトプットのバランスが大事ってやつ」
「ああ!」
急に恥ずかしくなった。気分が落ち込むとき、何が有効なのかという話をしていたときだ。好きな音楽や映画を観聴きしたり、お笑いの動画を見たりするようなインプットに重きを置きがちだが、自分で歌ったり笑ったり誰かと話したり何かを作ったりするようなアウトプットもした方がいいと、確かに少し前に話した記憶があった。あの話をしたとき彼は確かに落ち込んでいて、そんな中押し付けがましく喋ってしまったなと反省したところまでよく覚えている。
「僕に足りてないものはアウトプットだと気付いた。だから君に電話しようと思ったんだ」
「話すことは一番簡単なアウトプットだもんね」
「……そうかな、僕には難しいよ」
ちょっとだけハッとさせられた。わたしにとって、彼と話すときは普段頑丈なストッパーが外れ、力が抜け、するすると言葉が出てくるようになる。取り繕ったそれではなく、脳みそや心や体の隅々から流れるように出てくる、純粋で紛れのないわたしのそれだ。だから、簡単だと言った。彼の存在がそうさせるのだ。だけど、きっと彼にとってのわたしの存在は、違うんだと思った。
「そっか。じゃあ、わたしでよかったのかな」
「え。君以外はないよ、それは絶対」
核心をつかない、どこかふわふわとした彼の言葉と重なるように、聞き慣れたメロディーがイヤフォンの先から聞こえた。これは絶妙に話を逸らせるチャンスだ。
「あれ?今コンビニにいるの?」
「あぁそうそう、気分転換にドライブしてたんだよね。今はコンビニに車停めてタバコを吸ってるところだった。そろそろ運転再開するかぁ」
「切る?」
「ううん、もうちょっと話そ。ドライブ終わるまで付き合って」
最近の車は、Bluetoothでスマホを繋げ、運転しながらもハンズフリーで電話ができるらしいから便利だ。そこからは、本当にたわいのない話を交わした。芸能人の誰が逮捕されたが作品に罪はないとか、あのアーティストが最近活動してないとか、そんなことばかりだ。途中、共通の好きな音楽をかけながら一緒に歌ったり、おすすめの曲をかけて聞かせたりもした。
あぁ、この時間が永遠に続けばいいなと思ってしまった。あまりない感覚だ。大衆が永遠を望む場面は多いが、もし永遠というものが本当にあるとしたら、それはとても残酷な世界だと思う。だって今の時間が永遠に続くということはすなわち、私たちはずっと遠いままだ。
彼の言葉数がだんだんと減ってきた。私も捲し立てるように喋る気は起きず、沈黙の時間が増える。まぁこれも良い。決して居心地の悪い時間ではない。
「あのさぁ」
「うん」
「さっき話したじゃん、アウトプットするために君に電話したって」
「うん」
「やっぱり電話やめるわ」
「……え?」
「ありがとう、ドライブ中にも付き合ってくれて」
「待って、切っちゃうの?」
酷く混乱した。珍しくやや唐突な申し出だった。やっぱり、アウトプットのためには私じゃダメだったのか。やっぱり普段のように、心のスイッチをオンにして喋らないといけなかったのだろうか。楽しいと思っていたのはわたしだけ?オフモードのわたしはつまらない?彼は、さらに遠くにいってしまうのだろうか。
「うん、切るよ」
夜の際立った静寂が身体に染み渡った頃、見下ろしてた道路に、一台の車が停まろうとしている。そのハザードはやけに眩しく、わたしの心は飛び跳ねた。
食事が怖い
私は食べるのが遅い。
幼少期から、家族で食事をしていても圧倒的に食べるのが遅く、私が半分ほど食べ終わる頃には他の家族はみんな食器を片付け、リビングに行ってソファーに座りテレビを見ていた。私はその家族の背中を見て、必死にもぐもぐした。
小学校の頃、給食の時間が何となく嫌だった。給食当番の子一人一人に「少なめで!」と声をかけて、なんとか給食の時間内に食べられるよう調整することを覚えたが、それだといかんせん量が足りなかった。食べるのは遅いが、小食では決してないのだ。しかし、みんなに合わせるためには仕方がなかった。小学校ではなぜか早く食べ終わるのが善で、時間がかかるのが悪だった(いや大人でもそうなんだろうか)。授業が伸びて給食の時間が短くなった時は先生を恨んだ。小学校の時、私はかなり痩せていて、かといってそれは(家ではしっかり食べていたので)給食の量は関係がなかったのだが、周りの男子にすごくからかわれた。つけられたあだ名は"骨子"で、給食の時は必ず「これだから骨子なんだよ」と言われた。私だってみんなと同じ量を食べたかった。が、休み時間にみんなの姿を見ながらもぐもぐするのは避けたかったので、我慢した。
中学生になり、吹奏楽部に入った私は、昼練に行くためにお弁当を急いで食べる必要があった。最初のうちはお弁当を残して昼練に向かったが、残して帰ると母が悲しい顔をするので、量を減らしてほしいと伝えた。友達には「そんなんで足りるの?!だからそんなに痩せてるんだよ!」とお腹をつつかれた。食べきれなかったお弁当は5時間目と6時間目の間に食べるようにしていたが、全く休息にならなかった。でも高校に入る頃には早食いの術を身につけて、人並みのお弁当を人並みのスピードで食べられるようになった。これで悩むことはないだろうと、なんとなく安堵しながら、お弁当をかきこむ毎日だった。
高校を卒業して大学生になり、集団でご飯を食べに行く機会が増えたのだが、そこで「早食いマジックがかかるのはお弁当の時だけ」ということに気づいた。私はどこの場に行っても、必ず最後までもぐもぐしていた。新歓の時期、先輩に連れて行ってもらったお店が安くて大盛りの中華のお店で、みんなその量にびっくりしていたのだが、それでもみんな、お箸を持つとあっという間に平らげた。なんで?!と思いながら、私も頑張って食べたが、なかなか減らなかった。料理はちゃんと美味しかった。先輩に「焦って食べなくていいからね」と言われて、それで自分の食べるスピードの遅さを認識されていることが自覚されて、余計焦った。だんだん味がしなくなる。新歓で同期も先輩も初対面の人ばかりだったから、どう思われているんだろうとひどく気になった。
女友達と2人でご飯を食べる時だって、必ず友達の方が食べるスピードが早い。たまに悪気なく「意外と食べるの遅いんだね、普段はテキパキしてるのにね」と笑われる。笑い返してごめんねと言えばいいことなんだけど、こればっかりは気にしてることだから、苦笑いしながら心の中でごめんなさいを連呼する。多分相手はそこまで気にしてないことが多い、ことはわかっている。
デートの時、男の人の食べるスピードに比べたら申し訳ないくらい遅い。優しい人が多いので、ゆっくり食べてねと言われることが多いが、もちろん焦る焦る。イライラさせているんじゃないかと不安になるし、食べてるところを見つめられると、何か変かなとか、食べ方汚くないかなとか、何を考えてるんだろう遅いなって思われてるだろうなって考えてしまって、余計喉を通らなくなる。相手が暇そうにしている中必死でもぐもぐしている時間は本当に吐きそうになる。一回ラーメンを食べに行った時、「もうお前とはラーメン屋は来ないわ」と言われたことがあって、それは本心なのかギャグなのかわからなかったけど、私はとっても落ち込んだ。大好きなラーメンだが、それからあまり食べていない。(1人で食べに行くにも、店員さんに『このお客さんは食べるのが遅いなぁ』と思われているのではないか、と考えてしまうのだ。)
食べるのが遅くてコンプレックスだ、という話をすると、「かわいいね」とか「女の子って感じだね」とか言われることが多い。ごく稀に「かわい子ぶらなくていいよw」「女の子ぶるなよw」と笑われる。私自身、可愛いキャラではなくどちらかと言うとサバサバあっさりしたキャラだから、余計"ぶっている"ように見えるのかもしれない。
そんなんじゃないのに。私は、真剣に悩んでいる。ごめんなさいと思いながら食事をする時が本当に多い。食事が怖いとすら思う。
食べることは好きだ。多分人並み以上に食に興味はあって、美味しいお店を開拓したり、自分で作ったりするのも好き。その土地の料理を食べたくて旅行に行くこともあるくらいだ。
「人生の食事の回数は限度があるから、一回一回を大切に、美味しいものを食べなさい」という亡くなった祖父の言葉を大事にしていて、だから、食事が苦しい時間になってしまうのは本当は避けたい。美味しいものを食べている時は幸せになれるし、美味しいものを食べるために遠くまで足を運ぶのもまた、趣深いものだ。
そんな大切な食事だが、一般的な誘い文句が「食事にでも行きましょう」「飲みに行きましょう」であるように、非常にライトでハードルの低いものと認識されているように思う。ただ、「食事は口、つまり粘膜を見せ合うものだから、すごく性的だ」という説もあり、また「食事で得られる快楽とセックスで得られる快楽は似ている」なんてことも言われていて、どうやら奥が深いようだ。ライトなのか、特別なのか、よくわからない。
食事をやめる、ということは人生で出来ないので、食事をする時間に出来るだけ辛さを感じないようにしたいのだけれど、記述したように相手にどう思われるのかが気になったり、あとはアレルギー持ちであったりで、なかなかプラスの気持ちを100%近くまで持つことができない。(アレルギー、仕方ないと分かっていても面倒だと思われていそうだ。悲しい。)最近は慢性的に胃を壊していて、調子によっては全く食欲がなかったり食べられなかったりもするので、余計懸念事項が多くなっている。
食事が怖い。普通では、よくわからない感覚であろう。食事の時間は楽しく幸せでいたいものだ。
とりあえず、絶対に食べるのが遅くても気にならないと断言できる人と、一緒にラーメン屋さんに行きたい……。ラーメン食べたいなぁ。
写真を撮り撮られることに鈍感な世間と敏感な私と敏感であるべき世間
近頃、写真の『力』を感じることが多くなってきた。
写真SNSであるInstagramのビジネス利用が当たり前になり、写真一枚の流出で芸人生命が絶たれ、ブログに載せた写真がアイドルと付き合っていることの"匂わせ"だとして総バッシングを受ける。Facebookに載せようとした写真に友達が自動でタグ付けされ、洗面所で写真を撮ると家やホテルがすぐさま特定される。
それでも尚、写真に鈍感な人が多いことに、私は一番恐怖を感じている。
街の風景を撮ろうと思った時に、躊躇なく向かいから歩いてくる人の顔を写す神経がわからない。顔がはっきり判別できる距離にいる人を正面から写した時、それが例え個人利用の範囲に収まる写真だとしても、私は絶対にデータを残しておけない。簡単なことで、私だったらそのように映り込みたくないからだ。
そもそも、カメラのレンズをそちらに向けることすら躊躇われる。簡単なことで、私だったら「私もしかしてあの人の撮る写真に写ってる?」という心配をしたくないからだ。
周りの人への配慮は、カメラを持つ人の最小限のマナーだと思う。それは「田んぼに三脚を据えない」「禁止されているところでは撮らない」だけではなく、被写体の対象となり得る全てのものに、一通り意識を向けなければダメだ。どうして、マンションの一室のベランダに干してあるTシャツを撮るのか。どうして、海外に行って電車内の外国人の顔をアップにして撮るのか。
貴方にとっては、そこに何らかの芸術性を感じるただの被写体かもしれない。しかし、その被写体自身の生活やプライバシーを考えられないようであれば、二度とシャッターを切らないでほしい。
これはもしかしたら男女の差や経験の差があるのかもしれないが、知らない人のカメラのレンズがこちらに向いていると、とても恐怖感を抱いてしまう。私が階段を降りようとした時、階段の下でカメラを構えている人がいたら、何を撮っているかは別にしても、間違いなく降りることは出来ない。電車の向かい側の席に座る人がスマホを地面に対し垂直に、まっすぐ正面に据えていたら、何かを撮ろうとしているのかもと警戒してしまう。
そう、上で少し触れたが、今の世の中誰しもがカメラとなるものを持っている。スマホのカメラは本当に高性能になり、ある場面では一眼レフに劣らないと思えるほどだ。つまり、自分が加害者になり得ることを、「カメラマン」でなくても、全員がわかっていなければならないはずなのだ。
最低限のマナーを守ろう。
映り込む人が少しでも不快になりそうなこと・損益を被る可能性があることはしない。それはシャッターを切っても切らなくても、構えた時点で意識しなければならない。
またこれは、SNS等に載せる場合には一層気をつけなければならない。一度ネットの海に出たものは完璧に消せないことは、どこかで必ず聞いたことがあるだろう。
簡単なことで、相手の立場になって考えてみることだ。貴方の顔がはっきり写った写真が、全く知らない人のアカウントから意図せずネットの海に流れ、その情報をどこかに抜き取られたら?
「そんなこと、考えてなかった」と呑気でいる間に、自分の情報が知らないところから知らないところへ渡っていたら?
写真は素晴らしいものだ。
その時その瞬間を抜き取り、ある時は思い出より鮮明に、そして美しく残すことが出来る。或いはその一枚で、人の心を動かす可能性すら秘めている。
だから、だ。
だから、それがただ素晴らしいものであるように、最低限のことを守らなければならない、と私は思う。