生演奏の音楽って最強だなと思った本日の日記
私は今病気を治すために入院していて、かれこれもう1か月以上が経っているのですが、お昼ご飯を食べ終わってのんびりしている頃に、こんな院内放送が流れました。
『まもなく、15;30より、院内ミニコンサートを開催いたします。場所は○○です。皆様、是非足をお運びください。』
いやいや初耳なんですけど!!!!!!!!
え、早く言ってよ、と思いつつ、音楽が大好きな私は急いで会場に向かいました。
なんのコンサートなのか、誰が演奏するのか、、、何の情報も知らないまま、ただ「生の音楽が聴ける!」という思いで、重い身体を自ら動かしてベッドから出て歩く。
まず、そうさせてくれてありがとう、と。ここで、1感謝しました。
というのも、入院していると、とにかく暇でやることが本当にマジで全然ない。それ以前に、毎日同じ景色だから何の意欲も湧かないんですよ。「時間がたっぷりあるならいろんなことできるじゃん」と思うでしょ?いやいや・・・。プライベートもクソもない、カーテンで仕切られたベッドの上で一日中過ごす宙ぶらりんさ。同じ部屋の人にはもちろん気を使うし(音を立てないようにするのって結構神経使うんだよなぁ)、不意打ちで看護師さんやお医者さんが様子を見に来るから100%気を抜くことはできない。一回ズボンの裾をまくって脚のリンパマッサージしている時に主治医が回診に来て、めちゃめちゃ恥ずかしかったんですよホント。夜だって修学旅行みたいに、2時間に1回見回りが来ます。いやいやそれで起きるわ。寝てるか確認するために顔に光を向けるのはやめてくれ。起きるわ。どうせ暇だろうと思って大量に持ち込んだ本や、友達が持ってきてくれた漫画も、何せ意欲が湧かないから開いても全然進まないの。そもそも体調悪いから集中力持たないんですわ。何もできないの。何も。毎日何してんだろうってふと考えて、虚無に陥るわけです。かと言って、逃げる場所もないわけで、そうなると机の上に置いてある魔女宅のジジのぬいぐるみで遊ぶくらいしかできないんですよ・・・。ジジありがとう・・・・・・・・。
(止まらぬ愚痴を、ジジへの感謝で誤魔化しましたよ筆者)
(ちょっと息を整えます、フーーーーーーーーー。)
(かわいいなぁ)
だからね、コンサートがあるからと、入院患者が一つの場所に自主的に集まる、もうこれでまず、尊い空間が出来上がるわけです。
ちなみに皆様お忘れでしょうが、まだ会場に着いたところまでしか書いてません。
書き終わるのか?この日記。
会場に着くと、即席的に並べられた椅子にはおじいちゃんおばあちゃんがたくさんいました。どうやら若い人は私だけの様子・・・。なんとなく一番後ろの列の席に腰を下ろして、入り口でもらったプログラムに目を通すと、「ピアノ&ソプラノ」の文字列を確認。なんだぁ、自分にとって身近な吹奏楽器だったらもっとよかったのになぁと少し残念な気持ちになってしまいました。でも前にはすでにドレスアップした演奏者の方がスタンバイしていて、一瞬抱いた残念な気持ちは吹っ飛び、ウキウキわくわくそわそわどきどき。この人どんな声を出すんだろうな・・・。
時間になると、短い自己紹介の後、早速演奏が始まります。
聞く側の体力がないことがわかってるからか、無駄のない進行。演奏者の方は、ボランティアで月に一回、病院内での演奏会をやっていらっしゃるらしいです。素敵。
で、結論から言うと(いや前置き長かったわ)、前奏のピアノの音を一音聞いただけで涙が出ました。歌の一声目で、視界が完全に不明瞭になりました。完全に水分不足になりました。
自己紹介の際に、「今日は皆様がご存知であろう曲をたくさんやるので、もしよかったら一緒に歌いましょう」とおっしゃっていたんですね。秋をテーマに、赤とんぼとか紅葉とか、確かに私でも歌える曲ばかり。泣いてたから一切歌えなかったけど。周りのおじいちゃんおばあちゃんも、最初から最後まで大合唱。
この尊さ、私は皆様に、なんとか伝えたい。。。頑張るから読んで。。。ください。。。
私も普段は演奏者側の人間なので、両方の立場から言ってしまうのですが、生のコンサートというのは、演奏者、その演奏者のその日のコンディション、その場所、その日の天候、その日のお客さん、、、などなど、唯一無二の条件で作り上げる、世界でたったひとつしか存在しないものなんですね。同じ演奏者でも日によって演奏に多少のムラがあるのは当たり前だし(むしろないと面白みがない)、演奏する部屋の広さや形はどんなものか、どこに何が置いてあるか、湿度はどうか、それによっても音の伝わり方が全然違う。さらに、届ける先はお客さんです。音という波を受信する人がどれくらいいるか、どんな人が受信するかによっても、もちろん届き方、聞こえ方は異なります。そうやって一つ一つが、音楽を成り立たせるための欠かせない要素になっているわけです。
もちろん私自身が演奏する側である時もそんなことは意識しているつもりでしたが、いざ自分が聞く側になると、それを身体でもろに感じることができました。
お客さんは、入院中でどこかしらを病んでいる人たち。そんな人たちが自分でも一緒に口ずさみながら、人が発する波と、自分が発する波を受信して、身体に音楽を取り込むんです。最初のうちは固かった身体もだんだんほぐれてきて、首や足、指先、思い思いの身体の個所でリズムを取り始めます。音楽を感じている時間は、普段の辛さがきっと多少は軽減しているんです。車椅子に座った方が、点滴を繋いでいる方が、疲れた顔をしているみんなが、一緒になって一つの音楽を作り上げているんです。
さらに、演奏者の方が素晴らしかった。一人一人の顔を見ながら歌うんです。そして、あぁ一人一人に届けようとしているな、という歌い方をしているんです。お客さんの存在を丁寧に確認しながらの音楽は、本当に素晴らしいものでした。心から音が出て、心で受信しているのかな?と思うほど。
「"誰か"のために演奏する音楽が結局無敵」という言葉をたまに聞きます。"誰か"を想いながらの演奏は、実力云々に関わらず、特別な響きと説得力を持つものです。でも、簡単にできることではないと私は思う。それを、今回の方はお客さん一人一人に対してやってのけたわけです。感動した。
一番後ろの席に座ってしまった私は、耳だけではなく目からも、さまざまな情報を取り込めてしまい、もう本当に、最初から最後まで涙が止まりませんでした。
途中、歌っている方が歩いて私の近くまで来てくれました。泣いてんのバレたわ恥ずかしい。でもそれほどダイレクトに音楽を受信していること、きっとわかってもらえたと思います。彼女は私の顔を見て少し微笑んで、歌い続けてくれました。
*
きっと演奏会やライブに足を運んだことのある方なら、わかると思います。
生の音楽には、力があります。
その場その時その状況でしか作り出せない音楽。
目も前の人たちに向かって届けようとするその演奏者の心。
みんなで一つのものを共有する幸せ。
ずっと、忘れないようにしようと思いました。