コーヒーと紅茶のお話
最近、全く創作意欲が湧かなくて、ブログに限らず編曲などいろんなことが滞っている。すごくよくない流れだ。
だから、とりあえずくだらないことをつらつら書いて、なんでもいいから一つ完成させてみようと思う。
創作における調子が悪い。そういう時に限って、無意識の内に高い完成度のものを求めすぎていて、自分を縛り付け、頭が凝り固まってしまっているのだ。きっとそうだ。
私は昔からブラックコーヒーが大好きで、エスプレッソなんて特に大好物だった。
21歳の若者が、昔から、なんて大袈裟だなと思われるかもしれないが、中学生の時から既にミルクも砂糖も入れない濃いコーヒーが好きだったし、なんなら小学生の時も家で自ら進んで無糖のアイスコーヒーを飲んでいた記憶がある。
コーヒーは大人の飲み物だ、というイメージがあった小中学生の頃の私は(飲めるくせに嫌味な子供だ)、自分は大人びているのだと思い込み、少しだけ誇りに感じていた。だからこそすすんで飲んでいたのかもしれないし、本当は味なんて二の次だったのかもしれない。
ブラックコーヒーを飲める自分に酔っていた、きっとあのときは。
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昔から、大人っぽい、大人びている、頼れる姉御、なんてことを言われて育ってきた。
小学校の頃からずっと学級委員の常連だったし、なにかのグループを作るとほとんどの場合リーダーになった。
頼られるのは好きだし、メンバーそれぞれにあった仕事を振るのも、周りの人に世話を焼くのも、自分が頑張るのも好きだ。好きでやっていた。
親戚や学校の先生など、目上の人への態度には人一倍気をつけた。
私は案外体育会系というか、一昔前の考え方というか、そんな思考を持っていて、「絶対年功序列」というのは自分で幼い頃から守ってきたことだった。
言葉遣いに気をつける、敬語をちゃんと使う、とかそういうことではなくて(あえて言葉を崩した方がいい時もあると思っている)、年上の方にはしっかり人生の先輩として敬意を持って接する、相手は必ず立てる、といった感じだ。言葉にすれば簡単だが、案外できる人は少ない。みんな親しい人以外の他人には興味がない場合がほとんどだからだ。
幼い頃から年上の方に丁寧に接することを心がけていた私は、(自分から見て)偉い人に認めてもらえることが多く、そんなことも誇りに思っていた。
しかし、周りはそんな私に実力以上の”幻想”を抱き始める。
「貴女はしっかりしてるから」、「貴女はなんでも出来るから」、「あの子に任せておけば大丈夫だよ」、「将来は偉い人になるだろうね」。そんな言葉達は決して悪意などない、光栄な言葉達であったはずなのに、私の肩に、心に、ズンと重くのしかかった。
実際、大した人間ではない。
それは自分が一番よくわかっていた。
だけど、期待に応えるのが私の使命だと、それで私は認められ、存在していいことになるのだと、そんなふうに信じていた。
しかし大学生になった私はついに、"大人びた"自分に嫌気が指し、疲れを感じるようになった。本当はどこも大人びていないから、理想と現実のギャップに耐えられなくなったのだ。キャラを保つことはそう簡単なことではない。
疲れを感じるようになっても、みんなの前に出ると、もうこんな私はやめたい、本当の甘えたがりな私でいたいという思いは常に隠し、気丈に振る舞っていた。それは体調が悪い時でもそうだった。強がることは昔から得意なのだ。
先日誰かが私の振る舞いを「プロフェッショナルだ」と言ってくれた。なんのプロフェッショナルなのだろう、なんの誇りなんだろう、馬鹿みたいだ。
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20歳を超えて、それまで外食にて食後の飲み物には必ずコーヒーかエスプレッソを頼んでいた私は、好んで紅茶を頼むようになった。
しかも、高確率でミルクや砂糖を入れてしまう。
一昔前の私からすれば、考えられないことだ。
多分、これは多分だけど、大人っぽい人間であらねばならないという重圧に、まず耐えられなくなってもいいポイントが、「ブラックコーヒーを飲む私」だったんだと思う。
だから私は、ブラックコーヒーを飲む私を捨て、大人から一歩遠ざかり、そしてまたもうすぐ歳を重ねる。
コーヒーも紅茶も好きだ。
でも今の私には、ロイヤルミルクティーくらいがちょうどいい。
甘くまろやかな温かいロイヤルミルクティーが、今とても飲みたい。